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LuckBridalClub

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結婚相談所の事件簿 〜今日も扉の向こうで、ご縁がほどける〜 プロローグ

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結婚相談所の事件簿 〜今日も扉の向こうで、ご縁がほどける〜 プロローグ

※この物語は、結婚相談所「LuckBridalClub」を営む武田憲暁さん・眞由美さんご夫妻のご協力のもと、ご本人の了承を得て書いたフィクションです。
実名で登場するのは、ご夫妻のお名前と相談所の名称だけです。そのほかの登場人物、会員の方、施設、団体、出来事、会話は、すべて作者の創作です。実在の人物や会員の方とは関係ありません。
ご夫妻の言動や来歴にも、物語上の創作を含みます。

プロローグ:一杯目のコーヒー

朝というものはその日の自分を量る体重計のようなものだと思う。
乗ってみるまで自分が重いのか軽いのかはわからない。鏡と違って、ごまかしもきかない。
私にとっての体重計は、開店前の一杯のコーヒーだ。
豆を十八グラム量る。挽く。沸かした湯を九十三度まで落ち着かせ、粉の上へ静かに注ぐ。三十秒蒸らすと、粉がふくらんで小さな丘になる。その丘の形と、立ちのぼる香りでその日の調子がわかる。うまく淹れられた日は、たいてい一日がうまく運ぶ。香りが立たない日は、どこかが重い。気分とか、寝不足とか、まだ名前のついていない何かが。
毎朝、同じ手順を同じ順番でなぞる。茶の湯に似ていると、自分では思っている。型があるから、その日の揺れがわかるのだ。型のない朝は揺れているのかどうかさえ、わからない。

私の店はカフェを併設したコワーキングスペースだ。駅から歩いてすぐの少し古い建物の中にある。平日の朝はパソコンを抱えた人たちが、一人、また一人と入ってくる。夕方には仕事帰りの人が、カウンターでため息をつきにくる。
そして月に一度、この店には別の種類の人たちが集まる日がある。
結婚相談会の日だ。

「おはようございます」
ドアのベルが鳴ると、先に会釈をするのは、いつも眞由美さんだ。その半歩うしろから、憲暁さんが、散歩の途中でたまたま立ち寄ったような顔で片手を上げる。
武田憲暁さん、眞由美さん。LuckBridalClubという結婚相談所を営むご夫妻だ。お二人とも仲人をなさっている。ハンコ屋さんも営んでいらっしゃる。ハンコを押す仕事と、縁を結ぶ仕事。どちらも人生の大事な場面に立ち会う仕事だ。
憲暁さんは物腰の柔らかい人だ。いつも何か楽しいことを考えているような顔をしていて、雨の日でも「谷口ちゃん、今日はいい天気ですねえ」と言う。四十を過ぎた男が「ちゃん」付けで呼ばれるのは、少しくすぐったい。けれど、不思議と嫌ではない。
眞由美さんはさらに静かな人だ。話すより、聞くことのほうが多い。どんな話にも「そうですか」「それは大変でしたね」と、同じ温度で相づちを打つ。
私は二人分のコーヒーを淹れる。憲暁さんには少し熱めに。眞由美さんには少しぬるめに。

相談会の日、ご夫妻は店の奥の小さな個室で相談に来た人を一人ずつ迎える。扉が閉まる。中で何が話されているのか、私は知らない。覗くこともしない。
私に見えるのは扉の外側だけだ。入っていくときの顔と、出てくるときの顔。その間に起きたことは、あとからご夫妻が差し支えのない範囲でぼかして話してくださるか、本人がカウンターでぽつりと漏らすかしなければ、私には届かない。
それでも見ていると思う。ここにはいつも小さな事件がある、と。
事件といっても誰かが殺されるわけではない。推理小説でもない。「どうしてこの人はうまくいかないのだろう」という、ささやかな謎だ。本人にも見えていない。周りにも見えていない。それをあの夫婦はほどいてしまう。憲暁さんはすっとぼけたまま。眞由美さんは静かに。
私はいつからか、それを書き残しておきたくなった。

ひとつだけ、先に断っておく。
あの二人が、なぜ私の店に来るようになったのか。それはまたあとで話そう。物事には順番というものがある。
今は一杯目のコーヒーが冷めないうちに最初の事件から始めたい。
人と人はどうやって出会うのでしょう。

結婚相談所の事件簿 〜今日も扉の向こうで、ご縁がほどける〜 第1話

※この物語は、結婚相談所「LuckBridalClub」を営む武田憲暁さん・眞由美さんご夫妻のご協力のもと、ご本人の了承を得て書いたフィクションです。
実名で登場するのは、ご夫妻のお名前と相談所の名称だけです。そのほかの登場人物、会員の方、施設、団体、出来事、会話は、すべて作者の創作です。実在の人物や会員の方とは関係ありません。
ご夫妻の言動や来歴にも、物語上の創作を含みます。

第一話:人生が変わった男「よっちゃん」

人は自分がどうしたいかを言えたときに動き出す。

婚活というものは始めるより、続けるほうがずっと難しい。
入口には希望がある。プロフィール写真を撮り、自己紹介を書き、最初のお見合いの日取りが決まるまでの数週間は、人生が少し動き出したような気がする。誰でもその熱は持っている。
難しいのは熱が冷めたあとだ。申し込みを送っても返事が来ない。会えても続かない。三度目のデートの帰り道に「今日もありがとうございました」の一通で終わる。そんな朝が積み重なると、人は結果が出ないことよりも、結果が出ない自分に疲れていく。
その疲れ方には型がある。私はこの店のカウンターでその型をいくつも見てきた。これはいちばん最初に見た型の話だ。

吉川さんはカウンターの右から二番目の席の住人だった。
四十代の前半。背は高いのに、猫背のせいでいつも少し小さく見える。上着を脱ぐと、必ず袖を揃えてから椅子の背にかける。几帳面な人だ。注文は冬でもアイスコーヒー。ストローで氷をつつきながら、話し出す前に必ず一度ため息をつく。
そして、必ずこう始める。
「いや、俺なんかね」
この店の常連のあいだでは、いつからか、彼は「よっちゃん」と呼ばれていた。吉川良太だから、よっちゃん。本人はそう呼ばれるたびに照れたような困ったような顔をする。嫌ではないらしい。
よっちゃんは婚活を五年続けていた。ご夫妻と顔を合わせたのは、その五年目の秋のことだ。

その日は相談会の日だった。
個室の予約の合間にご夫妻がカウンターで一息ついていた。憲暁さんが座ったのが、たまたま、よっちゃんの隣の席だった。
「いや、俺なんかね」
あ、始まった、と私は思った。グラスの中で氷がからんと鳴る。
「五年やってるんですよ、五年。お見合いは組めるんです。組めるんですけど、続かない。この前の人は会って三十分で話が合わない気がして。その前の人は写真と全然違って。その前は食べ方が気になって。その前は――」
「ほう」
憲暁さんが相づちを打った。心から感心しているような「ほう」だった。
「それは大変ですねえ。ところでその食べ方が気になった方というのは、何を召し上がっていたんですか」
「え? あ、……パスタです」
「パスタ。いいですねえ。ここのパスタもおいしいんですよ。ねえ、谷口ちゃん」
「ありがとうございます」
と私は答えた。話が、まるで違う方向へ流れていく。隣では眞由美さんが微笑みながら、うんうんと頷いている。
それから三十分、よっちゃんは話し続けた。相手のこと。担当者のこと。世の中のこと。
担当者のことになると、声が少し大きくなった。
「今のところは、悪い人たちじゃないんですよ。でも五年いて、名前で呼ばれたのは入会の日だけでした。あとはずっと会員番号」
「番号」
「はい。連絡もいつも同じ文面で。毎月『今月のおすすめのお相手』ってメールが来るんですけど、あれ、誰にでも同じものが届いてるんです。この前なんか、宛名が『会員様』でした」
よっちゃんは氷をひとつ、強くつついた。
「悪気はないんだと思います。たぶん担当の方も、たくさんの会員さんを抱えて手いっぱいなんです。でも五年ですよ。五年いて、俺のことを一度も聞かれなかった」
「そうですか」
憲暁さんはそれだけ言った。
私はその担当者の顔を知らない。ただ、悪意のある人ではないのだろうと思った。大勢を受け持つ仕組みの中では、一人ひとりに手をかけること自体が難しいのかもしれない。それでも、聞かれなかった側の五年は、五年のままそこにある。
氷はとっくに溶けて、コーヒーはすっかり薄まっていた。
私はグラスを拭きながら、聞くともなく聞いていた。そして、あることに気がついた。
彼の愚痴には主語が三人いる。相手と、担当者と、世の中だ。
「俺」だけが、いない。
聞いてもらえなかったと、彼は言う。けれど、もし誰かが聞いたとして、彼は何と答えるのだろう。
どうなりたいのか。何を望んでいるのか。五年のあいだに起きたことは山ほど出てくるのに、これからどうしたいかの話は、ひとつも出てこない。
私はそれを口にしなかった。
私には癖がある。気づいたことを口にしない。口にしないまま、頭の中で答えを出し、頭の中で納得して、それで終わりにしてしまう。その答えが正しかったのかどうかを確かめる機会は、永遠に来ない。
憲暁さんも何も言わなかった。「そうですか、そうですか」と聞いていた。すっとぼけた顔で。
ただ、私は見ていた。よっちゃんが喋り続けているあいだに憲暁さんが一度だけ、ほんの一瞬、まったく笑っていない目で彼の横顔を見たのを。
見間違いだったかもしれない。少なくとも私にはそう見えた。

それから半年のあいだ、よっちゃんは月に一度の相談会の日になると、必ずご夫妻の隣に座った。
相談というより、愚痴だった。毎回、少しずつ違う愚痴を毎回、同じ顔で話した。憲暁さんは毎回「ほう」と言い、ときどき話を脱線させた。眞由美さんは毎回「それは大変でしたね」と言った。
この施設の運営責任者の浜野さんは、いつの間にか、この愚痴を「タイムリープ」と呼ぶようになった。思いついたら止まらない人で、遠慮がなく、そのうえ、悪気もない。相談会の朝になると、開店準備の手を止めずに聞いてくる。
「谷口さん、今月の吉川さん、何周目でしたっけ」
「確か、六周目です」
「先月はお相手のハンカチの柄でしたよね」
「その前が、笑い方です。その前が、歩く速さ」
「同じ一日を繰り返す映画みたいですよね。やっぱり、メモしてますよね」
していない。していないが、全部、覚えている。覚えているのは毎回、結論が同じだからだ。相手の何かが気になる。だから、断る。断ったあとはまた最初の「いや、俺なんかね」に戻る。
浜野さんが「タイムリープ」と呼びたくなる気持ちは、わかる。ただ、映画の主人公は、何かに気づけば同じ一日から抜け出せる。よっちゃんは五年、何に気づけばいいのかを知らないまま、同じ一日を繰り返している。
どうして、お二人は愚痴を聞き続けるのか。よっちゃんはまだ、ご夫妻の相談所の会員ではない。聞いても一銭にもならない。
あるとき、眞由美さんにそっと尋ねたことがある。
「だって、まだ、話し足りないみたいでしたから」
眞由美さんはそれだけ言って、私が差し出したコーヒーを両手で包んだ。
私はわかったような、わからないような気持ちで頷いた。話し足りない人に最後まで話をさせる。それがどれほどの手間なのかを私はそのころ、まだ知らなかった。

半年が過ぎた、ある夕方。
カウンターの右から二番目に座ったよっちゃんが、氷もつつかずに言った。
「今のところをやめて、武田さんのところにお世話になろうと思ってます」
「そうですか」
私は驚かなかった。驚かない自分に少し驚いた。
「俺なんかが、入れてもらえますかね」
「それは私が決めることではありませんので」
「ですよねぇ」
彼はふふ、と笑った。笑ってから、ため息をついた。順番が逆な気がしたが、それが彼らしかった。
数日後、よっちゃんはあの小さな個室に入った。入会の面談だ。
扉が閉まる。中で何が話されたのかは、わからない。四十分ほどして、扉が開いた。出てきたよっちゃんは、入るときよりも少しだけ背筋が伸びているように見えた。いや、疲れた顔をしていただけかもしれない。
少し遅れて、憲暁さんが出てきた。
「谷口ちゃん、おかわりをいただけますか」
「はい」
「いやあ、いいですねえ、あだ名がある人は」
「あだ名、ですか」
「ええ。『よっちゃん』って呼んでもいいですかって聞いたんです。そうしたら、『昔から、そう呼ばれてます』と。私はね、年下の方を呼ぶとき、ご本人がいいとおっしゃってから、ちゃんを付けることにしているんですよ。そのほうが、お互いに肩の力が抜けますからねえ」
憲暁さんはそう言って、少し熱めのコーヒーをうまそうに啜った。
少しして、よっちゃんがカウンターに戻ってきた。いつもの席に座り、氷をつつかず、じっとグラスを見ている。
「どうしました」
「いや、……聞かれたんです。『よっちゃんって呼んでもいいですか』って」
「ええ」
「前にいたところでは、五年、会員番号だったんです。呼んでいいかなんて、聞かれたの初めてで」
彼は照れたように袖口を揃えた。
「変ですよね。それだけなのに」
「いいえ」
私はそう答えた。それだけのことが、大事な人もいる。
こうして、よっちゃんはご夫妻の相談所の会員になった。

結果から言うと、それから半年、何も起きなかった。
いや、何も起きなかったわけではない。お見合いは何度も組まれた。仮交際に進んだ人もいた。ただ、どれも長くは続かなかった。三度目のデートで終わる。あるいはお見合いの翌日にお断りの連絡が来る。
お見合いの日、よっちゃんは決まって開店前の店に顔を出した。
「谷口さん、変じゃないですか」
上着の襟を直し、袖を揃え、また直す。ネクタイの結び目を確かめて、鏡のかわりにガラス窓に自分を映す。
「大丈夫ですよ」
「ですよね。いや、大丈夫じゃなくても行くしかないんですけど」
そう言って出ていく背中は、いつもより少し高く見えた。気合いが入っているのだ。
けれど夕方に戻ってくるとき、その背中は、出ていったときよりも小さくなっていた。
「どうでした」
「いや、まあ。向こうはすごく感じのいい方でした。俺が、ちょっと緊張しすぎて」
氷をひとつ、つつく。
「いや、俺なんかね」
愚痴の中身は変わらなかった。ただ、末尾が少しずつ変わっていった。
「いや、俺なんかね」が、「どうせ俺は」になり、ある日、ついにこうなった。
「俺には向いてないんですよ。結婚」
それが、彼がカウンターに座った、最後の日になった。
「しばらく、休みます」
そう言って、彼は上着の袖を揃え、きちんと椅子の背から取って、帰っていった。氷はひとつも減っていなかった。
カウンターの右から二番目の席が、空いた。
その席にはそれから、誰も座らなかった。いや、正確に言えば、私が座らせなかった。「予約席」の札を置くのは大げさすぎる。かわりに毎朝、コースターを一枚、置いておいた。ただ、それだけだ。常連のお客さんが何人か、「その席、空いてるの?」と聞いたが、「ええ、ちょっと」とだけ答えた。
なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。帰ってくるかどうかも、わからない人のために。あとになって、思う。あれは眞由美さんの「灯りを消さない」と、同じことだったのかもしれない。私はそのころ、まだそれに気づいていなかった。

それからの半年を私は、ご夫妻の「待ち方」で記憶している。
眞由美さんは定期的によっちゃんに連絡を入れていた。相談会が終わったあと、カウンターでスマートフォンの画面に指を滑らせる。ほんの数行の短い文面だ。
「今日は風が冷たいですね。温かくしてお過ごしください」
「桜が咲きました。お元気ですか」
用件は何も書かない。返事も求めない。尋ねると、眞由美さんはこう言った。
「灯りを消さないでおくだけなんです」
玄関の灯りだけ、つけておく。帰ってくるかどうかはわからない。それでも帰ってきたとき、暗くないように。眞由美さんの「待つ」はそういう待ち方だった。
「お返事は、いただけるんですか」
「いただいたことは、ありません」
眞由美さんはさらりと言った。
「でも、既読にはなっているんです」
私は、前の相談所の話を思い出した。毎月、同じ文面で届く「今月のおすすめのお相手」。宛名は「会員様」。眞由美さんの短い文面には、おすすめも催促もない。ただ、風が冷たいことと、桜が咲いたことだけが書いてある。
届くことと、届けることは、違うのかもしれない。
一方、憲暁さんは一度も連絡をしなかった。
「連絡、されないんですか」
私はあるとき、思い切って聞いてみた。
「ええ。しませんねえ」
憲暁さんは窓の外の街路樹を眺めながら、事もなげに答えた。
「動けない人に呼びかけても、聞こえませんからねえ。聞こえるようになるのを待つんです」
「いつまでですか」
「さあ」
憲暁さんは少し首をかしげた。そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、カレンダーを開いて、しばらく眺めた。
「そろそろ、ですかねえ」
何がそろそろなのか、私にはわからなかった。そのときも憲暁さんは、すっとぼけた顔をしていた。
眞由美さんはその横で湯気の立つカップに目を落として、小さく笑っていた。
動かないことと、待つことは違う。眞由美さんの待ち方は、灯りを残して待つ待ち方。憲暁さんの待ち方は、時計を見ながら待つ待ち方。同じ「待つ」でもまるで違う。
私はそのとき、少し考えてしまった。私のいままでの「待つ」はどちらだっただろう、と。たぶん、どちらでもなかった。ただ、動かずにいただけだ。

よっちゃんが「休みます」と言ってから、半年。街には春の気配が漂いはじめていた。
その日も相談会の日だった。昼下がり、個室の予約が途切れたとき、憲暁さんが、ふと立ち上がった。
「ちょっと、失礼します」
スマートフォンを手に店の入口脇のスペースへ出ていく。ガラス越しに憲暁さんの背中が見える。扉は完全には閉まりきらず、声が、細く店の中へ流れ込んできた。
私はカウンターの中でグラスを拭いていた。眞由美さんは窓際の席で紅茶に砂糖を溶かしていた。
「……もしもし。武田です。ご無沙汰しています。お元気ですか」
いつもの柔らかい声だった。
「ええ、ええ。……そうですか。いえ、お仕事のお話ではなくて、婚活のお話です」
数秒の間があった。
「ええ。休んでおられるのは、存じています。それで一つだけ、お聞きしたくて」
声が、少し低くなった。
「お前はこれからどうしたいんだ」
私は手を止めた。
店の中の音が、全部、遠くなった気がした。眞由美さんの手の中で紅茶をかき混ぜていたスプーンも、止まっていた。
「どう、したいんだ」
憲暁さんは同じ言葉をもう一度、ゆっくりと繰り返した。怒鳴っているわけではない。むしろ、声は静かだ。静かなのに、重い。それは石を一つ、水面に置いたような声だった。
「……はい、じゃなくて」
電話の向こうの声は、私には聞こえない。けれど、「はい……」と曖昧に返しているのは、想像できた。
「『はい』は返事です。私が聞いたのはあなたの気持ちです」
間があった。
「どう、したいんだ」
私は壁の時計を見た。それから、続く沈黙を数えた。三十秒。一分。二分。憲暁さんは何も言わなかった。ただ、背中を窓の外に向けて、待っていた。
三分を過ぎたころ、憲暁さんの肩が、わずかに動いた。
「……ええ」
小さく、相づちを打つ。
「……ええ。うん」
電話の向こうで何かが、少しずつ言葉になっていく。その気配だけが、ガラス越しに伝わってきた。
「……そうですか。うん。それを聞きたかったんです」
憲暁さんの声が、いつもの柔らかさに戻った。
電話を切ると、憲暁さんは少しのあいだ、空を見上げていた。それから、何事もなかったような顔で店に戻ってきて、ドアのベルをからんと鳴らした。
「いやあ、お腹がすきましたねえ」
「はい」
「谷口ちゃん、ここ、カレーはありますか」
「……メニューにはありませんが……少しだけお時間をいただければ」
「本当ですか。それはうれしいですねえ」
憲暁さんは本当にうれしそうに目尻を下げた。
さっきまで電話の向こうの人を石のような声で問い詰めていたのと、同じ人だとは思えなかった。私は思わず眞由美さんの顔を見た。
眞由美さんはスプーンを置いて、静かに言った。
「あの人が電話をするのは、一度きりなんですよ」
「一度きり」
「ええ。ずっと、あの日を決めていたみたいです」
眞由美さんは窓の外を見た。春の光が、紅茶の水面に細く揺れていた。
私はまかない用に仕込んであった鍋の火をそっと点けた。

それから、一週間後の夕方。
カウンターの右から二番目の席によっちゃんが座っていた。
上着の袖を揃えて、椅子の背にかける。几帳面な手つきは前と変わらない。ただ、ひとつだけ、違うことがあった。
「ホット、お願いします」
「アイスではなく?」
「ええ。今日はあったかいのがいいです」
私はいつもより少し丁寧に湯を落とした。三十秒の蒸らし。ふくらむ粉の丘。その香りをよっちゃんは、目を閉じて、胸いっぱいに吸い込んだ。
「……怒られました」
カップを両手で包みながら、よっちゃんが言った。
「何年ぶりですかね。人から、ちゃんと怒られたの。いや、怒られたというか、……逃がしてもらえなかった、というか」
「そうですか」
「『どうしたいんだ』って、何回も聞かれて。俺、『はい』としか言えなくて。『はい、じゃなくて』って言われて。そしたら、……黙っちゃって。長いこと、黙って。でもあの人、切らないんですよ。ずっと、待ってるんです。電話の向こうで」
よっちゃんは少し笑った。
「根負けしました」
湯気が、彼の眼鏡を曇らせた。
「俺ね、本当は」
彼は言葉を探すようにカウンターの木目を見つめた。
「家に帰ったときに誰かに『おかえり』って、言いたいんです」
「言って、もらいたい、ではなく」
「言いたいんです。俺が。『おかえり』って。……変ですかね」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「いい言葉だと思います」
「そうですか。はは……ですよねぇ」
よっちゃんは照れたように笑った。
怒られた、と言いながら、彼の顔はうれしそうだった。人はどうでもいい相手には、怒らない。怒るというのは見捨てていない、ということのいちばん不器用な言い方なのかもしれない。
その言葉には主語があった。「俺が」。五年のあいだ、そして、あの半年のあいだ、一度も聞くことのなかった、「俺」だった。
私はグラスを拭く手を止めて、考えた。
私はあの日、カウンターで彼の愚痴を聞いていたとき、すでに気づいていた。彼には主語がないと。「どうしたいか」が、ないのだと。
でも言わなかった。
憲暁さんは気づいていたはずだ。それなのに、半年のあいだ、愚痴を聞いていた。休んでいるあいだも、連絡をしなかった。そのあいだ、眞由美さんは灯りを消さなかった。
私の「気づいて、言わない」は待つこととは違う。待つとは気づいたうえでその人が自分の言葉を見つけるまでのあいだ、そばにいるということだ。
私はそういうことをそのとき、初めて知った。

それからのよっちゃんは、見違えるように動いた。
自分から、お見合いの申し込みを送るようになった。相手のプロフィールを読み込み、一通ずつ、自分の言葉でメッセージを添えた。断られてもカウンターで愚痴らなくなった。かわりに「今日の反省会です」と言って、手帳を広げた。
「お見合いのあとに必ず、ここに寄って、反省会をするんです。今日は何がよかったか。何が足りなかったか」
「誰と、反省会を?」
「自分とですよ」
彼は少し得意そうに言った。
一度、その手帳を見せてもらったことがある。ページが縦に二つに分かれていて、左が「相手のこと」、右が「自分のこと」。右側にはこんなことが書いてあった。
「緊張して、氷を三回つついた」
「質問が、尋問みたいになった」
「でも笑ってもらえた。うれしかった」
最後の一行の下には、線が二本、引いてあった。
ある日はお見合いの翌日に断りの連絡が来たと言って、カウンターに現れた。以前なら、一週間は引きずっただろう。ところが彼はホットコーヒーを一口飲んで、あっさり言った。
「ふられました。ははは」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないですけど、反省会はします。次は質問を三つまでにします」
手帳に何かを書き込む。その背中はもう「いや、俺なんかね」の人のものではなかった。
夏が過ぎるころ、よっちゃんはあるお見合いで出会った女性と、真剣に交際を始めた。
そして、木々が色づきはじめたころ。
「谷口さん」
その日、よっちゃんはカウンターの前に立ったまま言った。いつもの席には座らなかった。
「決まりました」
「そうですか」
「結婚、します」
彼は袖を揃えるのも忘れて、上着を握りしめていた。
「いや、俺なんかが、って、まだ、思うんですけどね。でも……『おかえり』って、言いたい人が、できたんです」
私は何も言わずにコーヒーを淹れた。ホットを。三十秒、蒸らして。丘が、ふくらむ。香りが、立つ。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
彼はカップを受け取った。その手は少し、震えていた。
ご夫妻はその日の相談会の合間に窓際の席から、その様子を眺めていた。憲暁さんは「いやあ、よかったですねえ」と、いつもの調子で言った。眞由美さんは何も言わず、ハンカチをそっと目元に当てていた。
よっちゃんが帰ったあと、カウンターに憲暁さんと私だけが残った。
「憲暁さん」
「はい」
「最初から、お気づきだったんですよね。吉川さんに『どうしたいか』が、なかったことに」
「どうでしょうねえ」
「言ってあげれば、もっと早く決まったんじゃないでしょうか」
憲暁さんはコーヒーカップの縁を指でゆっくりとなぞった。
「谷口ちゃん。人はね、他人から渡された答えは、握れないんです。握ったつもりでも手を離すと、落ちてしまう。自分の口から出た言葉だけが、自分の手に残るんですよ」
「……」
「それに」
憲暁さんはにやりと笑った。
「私が先に言ってしまったら、それは私の人生になってしまいます。よっちゃんの人生は、よっちゃんのものですからねえ」
そう言って、憲暁さんは残りのコーヒーをうまそうに飲み干した。

その夜、店を閉めたあとで私は、カウンターに一人で座った。
タブレットを開く。スタイラスペンを握る。画面は真っ白のままだ。新しい事業のこと。いつか、やってみたいこと。頭の中にはいつも形になりかけた何かがある。けれど、画面に書き込めたことは、一度もなかった。
「どうしたいんだ」
憲暁さんの声が、耳の奥でまだ響いていた。
あれはよっちゃんに向けた言葉だった。それは間違いない。けれど、受話器の向こうの誰かではなく、カウンターのこちら側に立っていた私の胸にことり、と、小さな石が落ちたような気がした。
私はまだ、何も書けなかった。
ただ、ペンを置いて、冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦かった。けれど、悪くない苦さだった。
あなたはこれからどうしたいですか。

第2話から10日に1回UPする予定です。