序章 拍子の裏側に潜む不協和音
ウィーン。三拍子が街路に溶け込み、人々が優雅に回転する都市。 しかしその軽やかなリズムの裏で、ひとりの男は終生、愛と憎しみの間で揺れ続けていた。 その名は、ヨハン・シュトラウス1世。 「ワルツの父」と呼ばれ、ウィーン市民の心を躍らせた作曲家である。 だが彼の私生活は、舞踏会の円環とは対照的に、断絶と逃避、そして葛藤に満ちていた。 妻と子を愛しながらも遠ざけ、誇りながらも抑圧し、家族という旋律を最後まで整えることができなかった男。 本稿では、史実に基づく具体的エピソードを織り込みながら、 彼の愛憎の心理構造を、時代背景と人間心理の観点から読み解いていく。
第一部 貧困と恐怖から始まった人生
1. 父の溺死と「家族」への恐怖
1804年、ウィーンのレオポルトシュタット地区。 ユダヤ人居住区に隣接する庶民街に、ヨハンは生まれた。 父は居酒屋を営んでいたが、彼が7歳のとき、ドナウ川で溺死する。 事故か自殺かは定かでない。 幼いヨハンに刻まれたのは、 「父は突然いなくなる」 という原体験であった。 さらに母も再婚相手との不和の末に死去。 少年は孤児同然となり、家族という安定構造を持たぬまま青年期を迎える。 ここに彼の人格の核が形成される。 安定への渇望 同時に、親密さへの恐怖 「家族」はいつか崩壊するという無意識 後年の家庭崩壊は、偶然ではない。
第二部 成功と結婚――幸福の前奏曲
1. アンナとの出会い
1825年、彼は**アンナ・シュトライム**と結婚する。 彼女は強く、実務能力に長けた女性だった。 当時のシュトラウスはまだ売れ始めたばかりの楽団員。 アンナは彼を支え、家庭を守り、経済管理を担った。 やがて長男が生まれる。 その名は―― ヨハン・シュトラウス2世。 のちの「ワルツ王」である。
2. 父としての誇り
彼は当初、家庭的な父だったと伝えられる。 家族と共に写真を撮り、子を抱き、家庭を築こうとした。 だが成功は、彼を家庭から引き離していく。 連日の舞踏会出演 ヨーロッパ巡業 宮廷との契約 膨大な作曲依頼 外の世界での喝采は、家庭の静寂よりも甘美だった。
第三部 裏切りの旋律――愛人との二重生活
1. エミーリエとの関係
1830年代半ば、彼は愛人**エミーリエ・トランプシュ**と関係を持つ。 やがて彼は別宅を構え、 事実上、二重生活を開始する。 アンナとの間に7人の子。 エミーリエとの間に8人の子。 彼は二つの家庭を行き来した。
2. なぜ裏切ったのか
単なる放蕩ではない。 彼の行動には心理的背景がある。 成功による自己拡張欲求 家庭に縛られることへの恐怖 幼少期の喪失体験による回避的愛着 彼にとって、 一つの家庭に完全に属することは「溺死」に等しかったのかもしれない。 だから彼は逃げ続けた。
第四部 父と息子の戦争
1. 息子の音楽的覚醒
長男ヨハン2世が音楽に才能を示す。 だが父は激怒する。 彼は言った。 「音楽家などになるな。」 なぜか。 それは愛情ではなく、恐怖だった。 自分を超える存在への恐怖 家庭の中での権威喪失 競争心 彼は息子の音楽教育を禁じる。 だが母アンナは密かに支援した。 家庭は二分された。
2. 公開対決
1844年。 ヨハン2世、デビュー。 観客は息子に熱狂する。 父の楽団と息子の楽団は、同じウィーンで対立公演を行う。 これは音楽史上稀に見る、親子戦争だった。 父は怒り、 息子は傷つき、 母は疲弊した。 三拍子の裏で、家庭は崩壊した。
