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「結婚に甘えていないか」 〜加藤諦三教授の視点から読み解く依存と成熟の心理〜

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「結婚に甘えていないか」 〜加藤諦三教授の視点から読み解く依存と成熟の心理〜
【序章】結婚は救済ではない──「甘え」の心理の誤解

「この人と結婚すれば、きっと私は幸せになれる。」

多くの人が心のどこかでこう信じている。だが、それはまるで“結婚という出来事”に人生の幸福の鍵を丸投げするような心のあり方である。

加藤諦三教授はこのような心情を「甘え」として明快に批判する。結婚とは本来、人生における〈新たな課題への挑戦〉であり、「逃げ場」でも「安住の地」でもない。しかし、人は不安や孤独、劣等感から逃れるために「結婚すれば何もかも解決する」という幻想を抱いてしまう。

この序章では、なぜ私たちは「結婚に甘える」心理に陥るのか、その社会的・心理的背景を概観する。

1.1 社会が作り出す「結婚神話」

かつて日本社会において、結婚は成人としての通過儀礼であり、家庭を築くことこそ人生の目標とされた。だが、この背景には、「結婚さえすれば孤独は癒される」「愛される保証が得られる」といった神話的な期待が潜んでいた。

加藤教授は、「結婚という制度に自分の孤独や不安の解消を委ねること」こそが、最大の誤解であると語る。結婚は万能薬ではなく、むしろ自分自身を照らし出す鏡である。

1.2 「甘え」は悪ではないが

「甘えること」がすべて悪だというわけではない。加藤教授の言う「甘え」は、他人に無制限に頼ること、自分を育てることを放棄すること、自分の不安を他人の愛で埋めさせようとする心の動きである。

心理的に言えば、それは「自己の境界線の希薄さ」からくる。他人との間に健全な距離が取れず、感情を他者に預けてしまうことで、自分自身で生きる力を失っていく。

1.3 「結婚すれば変われる」という幻想

「私はダメだけど、誰かが支えてくれればきっと…」

──このような希望を胸に結婚する人は少なくない。だが、それは自分の人生を他人に託す行為であり、自立の放棄でもある。

加藤教授は言う。

「人は、愛されることで救われるのではない。自分を知り、自分を受け入れたときに初めて、他者との健全な愛が始まるのだ。」


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第1章:甘える結婚と甘えられない結婚の分岐点

結婚とは、二人の人間がそれぞれの人生を携えて出会い、交差し、共に生きていく決意である。だが、その始まりの地点で、どちらか、あるいは両者が「甘え」の心理を抱えているとき、その結婚は静かに、しかし確実に崩壊の道を歩みはじめる。

本章では、加藤諦三教授がたびたび言及する“心理的自立”という観点から、「甘える結婚」と「甘えない結婚」の構造的な差異を分析し、その境界線を探っていく。

1.1 「甘える結婚」とは何か──“補償”としての結婚

ある30代女性の相談事例を紹介したい。彼女は「結婚がすべての悩みを解決してくれる」と信じて婚活を始めたが、交際が始まってもなぜか相手に満たされず、すぐに不安になり、相手に「私のこと、ほんとに好き?」と頻繁に問うようになる。やがて相手は疲弊し、関係は終わってしまう。

彼女は「私は甘えたいだけだった」と言うが、実は「甘え」の本質を理解していなかった。

加藤教授は、こうした態度を「相手に人生の空白を埋めさせる心」と喝破する。

「人間は空白を抱えて生きる。しかしその空白は、自分で向き合い、受け止め、乗り越えなければならない。結婚でそれを他人に埋めさせようとすると、その関係は壊れていく。」

このように、甘える結婚とは、自己の未熟さを補償してもらうための結婚であり、結婚を手段にして“自己愛の空洞”を埋めようとする試みである。

1.2 一方、「甘えられない結婚」とは?

逆に「甘えられない結婚」にもまた深刻な問題がある。これは、相手に対して頼ることができず、自分の弱さや不安を隠し続けて孤立する関係である。たとえば、完璧主義で自己犠牲的な女性が、「私が我慢すればうまくいく」と感情を抑え込み、夫婦の会話が年々減っていく──というようなケース。

このような関係では、一見して夫婦は安定しているように見えて、内面は互いに「心を閉ざした孤独な二人」になっている。加藤教授はこの状態を“感情的隔離”と呼び、

「結婚とは、本当の自分を見せられる関係でなければならない」と述べている。

つまり、甘えすぎる結婚も、甘えられない結婚も、どちらも本質的には“自分を正直に生きていない”という共通点をもっている。

1.3 「成熟」とは、“適切に甘える力”

ここで大切になるのが「成熟」というキーワードである。

成熟した人間とは、誰にも頼らない人ではなく、必要なときに適切に甘えることができる人である。甘えることを恐れず、しかし他人に自分の人生を預けることもない──そのバランス感覚こそが、真に自立した人間の証である。

ある男性は、婚約者が悩みを抱えていたとき、「大丈夫?話そうか」と自然に寄り添えた。それに対して女性も、「少し話を聞いてほしい」と静かに自分の感情を語れた。これは、「甘え」のバランスが取れている関係であり、結婚後も深い信頼関係が続いている。

このような関係に共通するのは、「自分の感情を正直に表現できること」と、「相手の境界を尊重できること」である。

1.4 「結婚に甘える人」の共通点とは

加藤諦三教授は、「結婚に甘える人々」にはいくつかの共通した心理的特徴があると指摘する。

幼少期に無条件の愛を十分に得られなかった経験

“人に受け入れられる”ことへの強い飢え

自己否定感と劣等感

孤独を恐れ、“愛されている”感覚に依存する傾向

こうした人々は、自分自身で心の空白に向き合うことが難しいため、結婚相手にその責任を求めてしまう。その結果、相手に対する期待が過剰になり、相手が「期待通り」に愛してくれないと感じた瞬間に、強烈な失望と不満が生まれる。

1.5 「愛されるために生きる」から、「共に生きる」へ

最後に、加藤教授の次の言葉を紹介したい。

「愛されたい、という気持ちが強すぎる人は、結局、相手を愛することができなくなる。」

「結婚に甘える」人は、心のどこかで「この人が私を幸せにしてくれる」と思っている。しかし、その発想こそが依存であり、「幸せになる責任」を他者に押しつける行為である。

真に幸せな結婚とは、「私はこの人と一緒に人生を創っていきたい」と思える状態であり、自分の空白を他人に埋めさせるのではなく、自分自身が与えられる存在になろうとする意志に基づいている。

第2章:「愛されること」への過剰な期待

「もっと私を見てほしい」「もっと愛してくれると思った」──

結婚生活における不満の多くは、突き詰めればこのような“愛されること”への期待から生じる。

加藤諦三教授は、「現代人の多くは、愛することよりも“愛されること”を求めすぎている」と繰り返し指摘している。愛されたいという願望は人間として自然なものである。しかし、それが過剰になると、人はやがて“愛してくれない相手”を責めるようになり、関係性はゆがみ、壊れていく。

この章では、「愛されること」への依存がもたらす心理的歪みと、その背後にある傷ついた自己像、そしてそれをどう乗り越えるかについて考察する。

2.1 「私はもっと愛されて当然だ」──無意識の被害者意識

ある女性は、結婚後すぐに「夫の愛が感じられない」と訴えた。夫は仕事に真面目で、生活費もきちんと入れていたが、彼女は「会話がない」「サプライズがない」「手をつながない」といった不満を口にした。

このような“愛されていない証拠集め”の背景にあるのは、「私は本来、もっと愛される価値のある存在だ」という根深い欲求である。

加藤教授はこう述べる。

「愛されることに執着する人は、心の奥に“自分には価値がないのではないか”という恐れを抱えている。」

その恐れが強ければ強いほど、「相手がどれだけ自分を愛しているか」という“証拠”を求め続ける。そしてそれが満たされないと、「私は傷つけられた」「私は愛されていない」と被害者意識が芽生える。

これは、自己愛の欠如が他者への過剰な要求となって表れている典型例である。

2.2 「愛されること」を求めることは悪か?

もちろん、誰もが他者からの愛を望む。それは人間の本能であり、何ら恥ずべきものではない。問題なのは、「愛されること」が“生きる意味”や“自己肯定”の根拠になってしまうことである。

例えば、子ども時代に「親から十分に愛されなかった」と感じている人は、「今こそ誰かに愛されたい」と強く思うようになる。その埋まらない穴を、恋人や結婚相手に埋めさせようとする。だが、そこには危険な構造が潜んでいる。

「愛を他者からの評価に依存している限り、人は永遠に不安を抱き続ける」

――これは加藤教授の、繰り返し語られる警句である。

2.3 「愛されること」に執着する心理の起源──母性不在の空虚

心理学的に見ると、愛されたいという強迫的な欲求は、乳幼児期の“無条件の母性”の欠如と深く関係している。

たとえば、ある40代男性の事例。幼少期に両親が離婚し、父に引き取られ厳しく育てられた彼は、大人になってからも常に「パートナーが自分を必要としているか」を気にし続けた。妻が少し冷たい態度を見せるだけで、「もう僕を愛してないのか?」と極端に不安になる。

これはまさに、母親的な“無条件の愛”に飢えたまま成長してしまった心の空洞を、配偶者に投影して埋めようとする姿である。

加藤教授はここでこう述べる。

「愛に飢えている人ほど、愛を要求し、相手の自由を奪う。」

本来の愛は自由であり、強制された愛はすでに愛ではない。だが、愛されることに囚われている人は、その自由さに耐えられず、愛を“管理”しようとしてしまう。

2.4 「愛されること」によって自分を保つ危うさ

愛されたいという欲望が自己存在の根拠になっているとき、人は常に“評価される自己”を演じなければならなくなる。笑顔で、相手の機嫌を取り、怒らせないようにふるまい続ける。だが、それは“自分らしさ”の喪失を意味する。

ある女性は、夫に気に入られるために何でも合わせ、無理に明るくふるまっていた。だが、結婚3年目で「私が誰なのか分からなくなった」と心療内科に通い始めた。

愛されるために“なりたい自分”を演じ続けると、やがて“本当の自分”との乖離が起こり、アイデンティティの崩壊を招く。加藤教授はこのような状況を「愛という名の自己破壊」と表現している。

2.5 「愛される」から「愛する」へ──転換のための第一歩

では、この過剰な「愛されたい願望」から抜け出すには、どうすればよいのか。

加藤教授の提言は明快である。

「愛とは“愛されること”ではなく、“愛すること”によって自分を知る行為である。」

つまり、自分自身が「与える側」になることによって初めて、愛されるということの意味もまた深く理解されるのである。

与えるとは、自分を犠牲にすることではない。成熟した愛の表現は、「相手の幸福を願い、相手の存在を尊重し、その人がその人らしくあれるように支えること」である。

それは、自分の空白を相手に埋めさせるのではなく、自らの心の成熟と向き合いながら共に歩む道である。

総括:「愛されたい」から「愛したい」への内的成長

結婚において、「もっと愛してほしい」という気持ちは自然だ。しかし、それが過剰になり、自分の存在価値を他人の愛情に依存させてしまうとき、愛は苦しみへと変わる。

「私をもっと愛して」ではなく、「私はあなたをどう愛せるか」へ。

この転換こそが、「甘え」から脱する第一歩であり、真の結婚の成熟である。

第3章:「自己放棄」の上に築かれる結婚の危うさ

「私はこの人に尽くせれば、それでいい」

「相手が喜んでくれるなら、私は何だって我慢できる」

──一見、献身的で美しく響くこの言葉の裏には、「自己放棄」という危うい心理構造が潜んでいる。

加藤諦三教授は、「自己を否定し、他者に合わせすぎる人ほど、やがて他者を恨むようになる」と喝破する。

この章では、自己放棄型の結婚がどのように形成され、なぜそれが最終的に「愛の破綻」に繋がっていくのかを紐解く。

3.1 「私は私でなくていい」──自己の喪失から始まる恋

加藤教授はたびたび「本当の自分を失った結婚は、いずれ破綻する」と語っている。

ここに一つの事例を紹介したい。

ある女性・美香(仮名)は、結婚前から「彼の好みに合わせて、自分を変える」ことに熱心だった。服装、趣味、話し方、交友関係──彼の“理想の女性像”に近づこうと努力し続けた。結婚後もその姿勢は変わらず、彼の気分を損ねないよう、自己主張を抑え続けた。

だが、5年後、美香は「私は夫の顔色をうかがう道具になっていた」と涙ながらに語った。

彼女は、自分という存在を「愛されるための手段」として差し出し続け、ついには「誰のために、何のために生きているのか」が分からなくなっていた。

これはまさに、“自己放棄型の愛”が抱える限界を示す典型的な事例である。

3.2 自己放棄は“愛”ではなく、“恐れ”である

一見すると、自己放棄は「相手を深く愛している証」のように映る。しかし、その本質は「見捨てられる不安」や「拒絶される恐れ」によるものだ。

加藤教授は次のように述べている。

「本当に自分を大切にしている人は、相手に迎合することで愛を得ようとはしない。恐れに支配された愛は、もはや愛ではなく、依存である。」

「この人に嫌われたら、自分の価値がなくなる」

「私が我慢すれば、関係は壊れない」

──このような思考の根底には、自尊心の脆弱さと深い自己否定がある。

3.3 「与えること」と「犠牲になること」の違い

自己放棄型の人は、「自分を犠牲にすることが愛である」と信じてしまっている。しかし、加藤教授はそれを明確に否定している。

「愛するということは、相手の自由と自分の自由をともに尊重することである。」

たとえば、ある夫婦は、妻が毎日夫のために完璧な家事をこなし、自分の趣味や友人との時間を一切断ち切っていた。夫は最初は感謝していたが、次第に「重い」と感じるようになり、やがて不倫に走った。

これは、“自己犠牲”がやがて“相手への期待”にすり替わり、それが“裏切られた”という怒りに変化する、典型的な心理の変遷である。

愛するということは、「自分を消して相手に尽くす」ことではない。

むしろ、「自分を大切にする姿を相手にも示し、その姿勢によって相手にも尊重される存在であること」が、健全な愛の前提である。

3.4 “良い妻” “良い夫”を演じすぎるとき

現代社会でも根強い「良妻賢母」や「頼れる夫」という“理想像”は、人々に大きな心理的圧力を与えている。

加藤教授は、「“良い人”でいようとする人ほど、本当の自分を押し殺し、やがて苦しむ」と言う。

社会的に良い妻、良い夫を演じるあまり、「怒り」「不安」「孤独」といった本来の感情を封じ込め、心の奥底に蓄積させていく。

その感情はやがて、予測不能な形で噴出する。

ある日、突然のうつ症状

予期せぬ浮気

無言の家庭内別居

子どもへの過干渉や過干渉

こうした現象は、すべて“自己放棄”という心の抑圧の副産物である。

3.5 「自分を生きること」が、相手との関係を育てる

では、自己放棄型の愛から脱するためには、どうすればよいのか。

加藤教授は、一貫してこう語る。

「まず、自分を知ること。そして、自分の気持ちに正直になること。」

自分は何が好きなのか

自分は何を嫌だと感じているのか

どこまでが相手の領域で、どこからが自分の領域なのか

これらを見つめなおし、日々の中で「自分の意志を表現すること」を恐れないことが、他者との健全な関係構築の第一歩である。

自己放棄ではなく、自己尊重によって築かれた関係は、互いの自由と信頼を土台とし、時間とともに深化していく。

総括:あなたは「相手の期待」ではなく、「あなた自身」で生きているか

結婚は、自分を失ってまで維持するものではない。

むしろ、「自分を生きることによって、他者とも深くつながる」ことこそが、真の結婚の目的である。

自己放棄とは、「生きているふり」である。

だが、愛とは、本当に生きて、本当に誰かと向き合う勇気である。

第4章:「傷ついた心」との対話

人は誰しも、心に傷を抱えて生きている。

だが多くの場合、その傷は見えない形で心の奥に沈められ、無意識のうちに人生を支配する。

加藤諦三教授は、こうした「見えない心の傷」にこそ、結婚生活の危機や葛藤の根本的原因が潜んでいると指摘する。

本章では、「甘える結婚」や「自己放棄型の愛」の背景にある“傷ついた過去”に光を当て、その傷とどう向き合い、どう癒し、そしてどう成長していくかを探っていく。

4.1 なぜ人は「自分を守るために」愛をゆがめてしまうのか

ある女性・裕子(仮名)は、結婚当初から「夫に嫌われたくない」という恐怖に駆られていた。夫が少しでも不機嫌になると、「私が悪いのだ」と思い込み、自分を責め続けた。

裕子は、幼少期に母親から「お前は手がかかる子だ」と何度も叱責されて育ったという。彼女の心の中には、「私はそのままでは愛されない」という無意識の確信が根付いていた。

加藤教授はこう述べる。

「愛を求めながら、愛されることを信じられない人がいる。それは、心が深く傷ついている証である。」

このような心の傷は、愛されることを強く求めながらも、それを信じ切ることができず、結果として、**「疑い」「自己防衛」「迎合」**といったかたちで愛をゆがめてしまう。

4.2 「傷」は忘れられないが、対話することはできる

傷ついた心を持つ人は、よく「過去を忘れたい」と語る。しかし、加藤教授は明確にこう断言する。

「心の傷は、忘れるものではなく、対話するものである。」

心の深層に沈んだ感情──悲しみ、怒り、孤独、拒絶された記憶。

それらは、無意識の中で今も生き続け、結婚相手という「もっとも身近な他者」に投影される。

たとえば、過去に父親からの無関心に苦しんだ男性は、妻の少しの冷たい言動にも敏感に反応し、「見捨てられる恐怖」に苛まれる。すると彼は怒りや嫉妬をぶつけ、やがて妻は「私は常に責められている」と感じ、関係が破綻していく。

このように、過去の傷が現在のパートナーとの関係を無意識に破壊してしまうのである。

4.3 心の傷を受け入れたとき、人は“他人”と出会える

加藤教授は、「自己理解の深さが、そのまま他者との関係の深さになる」と語っている。

つまり、自分の中の傷ついた感情を見つめ、受け入れる勇気があって初めて、人は真に他人と出会える。

ある40代の男性・隆(仮名)は、離婚後のカウンセリングで、初めて「母に拒絶された記憶」と向き合った。彼はずっと「女性は信用できない」と感じており、妻に対しても支配的で、感情を抑えようとしなかった。

だが、セラピーの中で彼は、母親の冷たさに傷ついていた“幼い自分”を思い出した。そして、「自分はずっと愛を求めていた」という事実に気づいたとき、初めて「妻の存在がどれほど貴重だったか」が心から理解できたという。

このように、自分の傷を受け入れたとき、人は初めて“愛する力”を手にするのである。

4.4 「強さ」とは、傷のなさではなく、傷と共に生きる力

結婚において、「弱さ」を見せることを恐れる人は少なくない。

だが、加藤教授は逆に、「自分の弱さを受け入れ、それをさらけ出せる人こそが、本当に強い人間である」と語る。

傷ついた経験を語ることができる人

泣くことを恥ずかしいと思わない人

弱音を吐ける場所を持つ人

──これらは、すべて“成熟した自己”の証である。

結婚は、「完璧な人間」になることを求められる場ではない。

むしろ、「不完全な二人が、互いの傷に耳を傾け、支え合いながら歩む道」である。

4.5 心の傷を「癒しの力」に変えるために

心の傷は、時に人を過敏にし、攻撃的にもし、絶望させる。

だが、加藤諦三教授のメッセージは、希望に満ちている。

「傷ついた経験は、あなたの弱さではない。それは、あなたが深く人を理解できる力に変わる。」

実際、心に傷を抱えた人ほど、他者の苦しみに敏感であり、優しさを育むことができる。

そのためには、まず「自分の傷に寄り添う」ことが必要だ。

手紙を書くように、自分の過去を振り返る

自分の感情を否定せず、丁寧に言語化する

カウンセリングや対話を通じて、心の痛みを解放する

こうした実践は、結婚生活のなかで“愛を壊す力”を“愛を育む力”に転化していく。

総括:自分の「痛み」とともに生きることは、誰かを愛する第一歩

「傷ついているから、私は愛せない」のではない。

「傷ついたからこそ、人を深く愛せるようになる」のだ。

心の傷は、消えることはない。だが、その痛みと静かに対話し、受け入れ、自分の一部として抱きしめることができたとき──

人ははじめて、「誰かと一緒に生きていく」という真の意味に目覚める。

結婚とは、ただ幸せになるための制度ではない。

結婚とは、自分と向き合い、他者と分かち合いながら、「成熟した自己」を築いていく旅路である。

第5章:愛されることへの誤解

「愛されたい」という思いは、人間にとって極めて自然な欲求である。

しかし、加藤諦三教授は、現代人が陥りがちな“愛されること”に関する誤解が、かえって愛を遠ざけていると指摘する。

「私はなぜ、こんなにも求めても満たされないのか」

「なぜ、あの人は私の期待に応えてくれないのか」

──こうした問いの背後には、しばしば“愛とはこうあるべきだ”という固定観念と、“愛されることが自分の価値の証明である”という誤認が潜んでいる。

本章では、私たちが抱きやすい「愛されること」への誤解の数々と、それが結婚生活に与える影響を、加藤教授の考察をもとに読み解いていく。

5.1 「愛されていない」と感じるとき、それは本当に“愛されていない”のか

まず問いたいのは、「愛されていない」と感じる瞬間、その感じ方はどこから来ているのかということである。

たとえば、夫が仕事で疲れて帰宅し、無言で食卓についたとき、ある妻は「彼はもう私に関心がない」と思い込み、傷つく。だが夫は単に疲れていただけで、心の中では「今日はありがとう」と思っているかもしれない。

このようなすれ違いの根本にあるのは、「愛とはこうでなければならない」という“自分だけの定義”である。

加藤教授は述べる。

「人はしばしば“愛されたい”のではなく、“自分の望む形で愛されたい”のだ。」

つまり、“自分の思い通りに愛されない”とき、人はそれを“愛されていない”と誤解してしまう。

5.2 「愛の言語」が違うとき、人は互いに傷つく

ここで、心理学者ゲーリー・チャップマンの「5つの愛の言語」に関連して、加藤教授の視点と照らし合わせて考察してみよう。

人はそれぞれ、「自分が愛を感じる表現方法」が異なる。

たとえば──

「言葉」で愛を感じる人

「時間の共有」で愛を感じる人

「スキンシップ」で愛を感じる人

「プレゼント」で愛を感じる人

「行動(奉仕)」で愛を感じる人

ある夫は、黙々と働いて生活を支えることが「愛の証」だと思っている。

だが、妻は「言葉で愛を伝えてほしい」と思っている。

このすれ違いは、双方にとって深い孤独をもたらす。

妻は「何も言ってくれない」、夫は「こんなにやっているのに、なぜ分かってくれない」と互いに不満を募らせてしまう。

加藤教授の指摘は鋭い。

「自分の愛の感受性が唯一正しいと思い込むとき、人は他人の愛を理解できなくなる。」

5.3 「愛されること」は「試されること」ではない

恋愛や結婚において、「相手がどこまで自分を愛しているか」を試すような態度を取る人がいる。

わざと連絡を絶つ

嫉妬させる行動をとる

相手の愛を“試す”ような発言をする

これは、自分に自信がなく、「相手の愛によって自己価値を確認しようとする」心理である。

加藤教授はこう語る。

「愛を確認しようとする行為そのものが、愛を壊していく。」

愛は、試すものでも、証明させるものでもない。

「信じたい」という意志と、「信じられる自分」であることが、関係を育てていく。

試すことでしか相手の気持ちを感じられないのは、自分自身が「愛されるにふさわしい存在だと思えていない」証拠でもある。

5.4 「私を愛してほしい」の本音は、「私は私を愛せない」

ある女性は、常に恋人に「もっと構って」「もっと私の話を聞いて」と要求し続けた。

だが、恋人が応じれば応じるほど、彼女の不安は募っていった。

ついには、「あなたの愛は本物じゃない」と責め、彼は去っていった。

加藤教授はこのようなケースを、「自己不在の愛」と位置付ける。

「人は、自分を愛していないとき、他人の愛を信じることができない。」

“愛されたい”と強く願う心は、ときに、「私は私自身を愛せない」という裏返しである。

自分の価値を、自分の内側ではなく、他人の愛によってのみ確かめようとする限り、愛は常に不安定で、脆くなる。

5.5 「愛されること」の先にある、本当の愛とは

では、私たちは“愛されること”にどう向き合えばよいのか。

加藤教授は、こう語っている。

「愛されることは、人生の目的ではない。愛されることによって自分の価値を感じるのではなく、自分の価値を信じることで、他者を愛する力が生まれる。」

真の愛とは、「私はこの人を愛したい」と思える心から始まる。

それは、「この人が私を愛してくれるかどうか」ではなく、

「この人の人生に、私は何を与えられるだろうか」という問いに向かう態度である。

「愛される」という願望を否定する必要はない。

しかしそれは、「自己理解」と「自己尊重」に裏打ちされた上でのみ、健全な愛の形として実現する。

総括:「愛されたい」という叫びの奥にある“自分自身への問い”

結婚における最大の誤解は、「誰かが私を完全に愛してくれることが、私の幸福である」という幻想である。

しかし、現実には──

誰かは常に完璧には応えてくれない

愛には表現の差異があり、すれ違いが起こる

自分が自分を信じていなければ、愛されても満たされない

愛とは、自分が変わることで見える風景であり、

他人を責めることで得られる保証ではない。

「私を愛して」と叫ぶ前に、「私は自分を大切にしているか」と問うこと。

その問いが、愛されることの“誤解”を解きほぐし、愛する力へと変えていく鍵である。

第6章:「人を愛すること」は訓練である

「愛することは自然にできるもの」

「本当に愛し合えば、すべてがうまくいくはず」

──そう信じている人は少なくない。しかし、加藤諦三教授は、この“ナイーブな愛の神話”に真っ向から異を唱える。

「人を愛することは、生まれつき備わった本能ではない。訓練と努力を通して、徐々に身につける技術である。」

愛は奇跡ではない。成熟のプロセスである。

本章では、「愛する」という行為がいかに心理的訓練によって獲得されるものであるかを明らかにし、その実践的道筋を探っていく。

6.1 本当の意味で「愛せる人」は少ない

加藤教授は、次のように述べる。

「人は“愛しているつもり”になっていることが多い。しかし、実際には相手を自分の所有物にしようとしているだけである。」

たとえば、恋人に「連絡は毎日必ずしてほしい」「他の異性とは絶対に話さないでほしい」と求める人がいる。彼らはそれを「愛ゆえのルール」と言うが、実はそれは「不安と支配」の表現にすぎない。

こうした“愛のふりをした支配”は、自分の未熟な心を相手に背負わせているだけであり、そこには本当の意味での「他者を思いやる心」は存在しない。

6.2 なぜ私たちは「愛すること」に不器用なのか

人間は、誰もが愛を求めているが、誰もが愛し方を知っているわけではない。

なぜなら、私たちの多くは、「愛される経験」こそあれ、「愛する訓練」を受けてこなかったからだ。

幼少期に──

無条件に受け入れてくれる大人に出会わなかった

自己表現を抑圧された

失敗を許されず、条件つきの愛情にさらされていた

──こうした経験は、「人を信じること」や「感情を開くこと」を困難にし、愛するという行為を“危険なもの”として捉える傾向を育ててしまう。

愛するという行為には、「自分を明け渡す勇気」と「他者を尊重する想像力」が求められる。

しかし、これらは自然には育たない。だからこそ、愛は訓練が必要なのだ。

6.3 「愛する訓練」の3つの段階

加藤教授の思想を土台にしながら、ここでは“愛する力”を育てるための三つの段階を提案したい。

第1段階:「自分の感情に気づく」

まず必要なのは、自分の中の感情に気づくことである。

怒り

不安

嫉妬

劣等感

──これらを無視したままでは、人を愛することはできない。

なぜなら、気づかれなかった感情は、他者への攻撃や冷淡な態度となって表れてしまうからだ。

愛の訓練は、「感情を否定しないこと」から始まる。

「今、私は不安なんだな」と正直に認めることが、他者との関係の第一歩である。

第2段階:「相手の立場を想像する」

自分の心を理解した上で、次に必要なのが「他者の立場に立つ力」である。

これは、感情的な反応を超えて、相手の背景・苦悩・不安を想像し、理解しようとする努力である。

加藤教授は「他人の心が見えない人は、他人の心を傷つける」と言う。

愛とは、ただ優しくすることではない。「相手の痛みを自分の痛みとして感じられる感受性」が土台になる。

第3段階:「恐れずに表現する」

最後に、愛を実際に“表現”する勇気が必要になる。

「ありがとう」と言うこと

「寂しかった」と素直に打ち明けること

「好きだ」と言葉にすること

──これらは、どれも簡単なようでいて、とても勇気がいる。

なぜなら、私たちは“拒絶されるかもしれない”という恐れを常に抱えているからである。

愛するとは、傷つくリスクを引き受けながら、それでも「大切な人に心を開く」ことである。

6.4 「愛されること」を待つのではなく、「愛すること」を始める

多くの人は、「誰かが自分を愛してくれるのを待っている」。

だが、加藤諦三教授はこう語る。

「愛を待つ人は、永遠に孤独である。愛とは、自ら行うことによってしか得られない。」

これは、恋愛にも結婚にも言える本質的な真理である。

たとえば、ある夫婦は、長年の間、言葉を交わすことなく無言の関係を続けていた。

しかし、妻がある日、勇気を出して「今日はありがとう」と一言口にしたとき、夫は涙を浮かべ、「ずっとその一言が欲しかった」と返した。

このように、愛する訓練とは、“一歩踏み出す勇気”の積み重ねでもある。

6.5 訓練の先にある「自由な愛」

愛を訓練として捉えると、「不自由」「努力」「我慢」のイメージが先行するかもしれない。

しかし加藤教授が目指すのは、「訓練の先にある、自由で成熟した愛」である。

自分を抑圧するのではなく、自分を知ること

他人に迎合するのではなく、他人と響き合うこと

愛されることに執着するのではなく、愛することを楽しめる心を育てること

このような愛は、与えることによって自分も満たされ、強制されることのない、**“生きる力としての愛”**となる。

総括:愛とは「生き方」であり、「選び取り続ける姿勢」である

愛は、どこかから降ってくるものではない。

それは、「自分の心と向き合い続けることによってしか育たない」、繊細で力強い生命の表現である。

愛することは訓練である。

だからこそ、人は学び、成長し、そして深まっていく。

愛の訓練を怠った者は、結婚という制度の中で“愛されること”を渇望し、苦しみ続ける。

だが、愛を学び続ける者は、日常の中に「与える喜び」と「共にある幸せ」を見出すことができる。

第7章:愛する資格としての“自己理解”

「なぜ、自分は愛されないのか」

「どうして恋愛や結婚がうまくいかないのか」

──そうした問いを繰り返す人の多くは、他者の心にばかり意識を向け、自分自身の心には無頓着である。

加藤諦三教授は明言する。

「自己理解の浅い人は、必ず愛に失敗する。」

愛するという行為は、まず「自分を理解すること」から始まる。

“愛する資格”とは、恋愛経験や知識の多寡ではなく、「どれだけ自分を深く知っているか」という内面的成熟の度合いにかかっている。

この章では、自己理解の重要性と、それがなぜ「人を愛する力」につながるのかを探っていく。

7.1 「わたし」がわからないまま、「あなた」と関係を築こうとする危うさ

「相手のことはよく分かるけれど、自分のことはよく分からない」という人は意外に多い。

自分が何を望んでいるのか

自分が何に傷つき、何に怒り、何に喜びを感じるのか

──こうした「自己の内面への問い」が未熟なまま、人は“誰かと関係を築こう”とする。

だが、それは“自分という土台のない家”に他者を招き入れるようなものだ。

ある女性は、「いつも彼に合わせてばかりで、何が本当に自分の気持ちなのかわからない」と語る。

彼女は「愛されたい」という強い願望ゆえに、自己を捨てて相手の希望に応じ続けた。

しかし結果的に「私は何者なのか?」という空虚感に苛まれ、関係は崩壊してしまった。

加藤教授は言う。

「自分が空虚なままでは、どんなに相手があなたを愛しても、あなたはその愛を受け取れない。」

7.2 自己理解の浅い人が陥る3つの愛の錯覚

加藤教授の理論をもとに、自己理解の欠如がもたらす典型的な「愛の錯覚」を三つ挙げてみよう。

①「相手がすべてを満たしてくれる」という幻想

自己理解が乏しい人は、自分の欠落や不安を、相手の愛によって埋めようとする。

しかし、他者はあなたの“人生の補助輪”ではない。

他者に自分の不全を埋めさせようとする愛は、常に“期待と失望のサイクル”を繰り返す。

②「相手の感情=自分の価値」という誤認

たとえば、相手が不機嫌だと「自分が悪いのだ」と思い込む。

これは、自己理解が曖昧で、自分の価値を相手の反応でしか測れない人に多い傾向である。

③「愛するとは、相手に合わせることだ」という誤解

本当の愛とは、相手に迎合することではなく、**“自分を持ちながら他者と調和すること”**である。

自己理解がなければ、自分を保つことができず、相手と一緒にいるうちに“自分”が失われていく。

7.3 自己理解がある人は、愛する力が強い

では、「自己理解がある人」は、どのように他者と関係を築くのだろうか。

自分の弱さを隠さずに語ることができる

相手の感情に巻き込まれずに冷静に受け止められる

「私はこう思う」と率直に表現できる

こうした態度は、相手に対して安心と信頼を与える。

加藤教授は、「自己理解の深さが、そのまま愛の深さになる」と述べる。

なぜなら、自分の内面を知っている人は、相手の心の複雑さも受け入れられるからである。

7.4 “自分を知る”ために必要な問い

自己理解とは、ある日突然悟るものではない。

日々の小さな問いの積み重ねによって、徐々に深まっていくものである。

今、なぜ私はこの言葉に傷ついたのだろうか?

この怒りは、本当に相手に向けるべきものだろうか?

私は何を恐れているのか? 何を守ろうとしているのか?

こうした内省的な問いかけが、「感情に支配されない心」を育て、他者と誠実に関わる力を養っていく。

7.5 自己理解があるからこそ、「自己主張」も「譲歩」もできる

“わがまま”と“自己主張”は似て非なるものだ。

自己理解のある人は、自分の気持ちを大切にしながらも、「他人の気持ちも同じように大切にできる」態度を持っている。

自分の意見を正直に述べられる

それでいて、相手の立場にも耳を傾けられる

そしてときには、自分のこだわりを手放すこともできる

こうした柔軟性は、決して相手への“迎合”ではなく、**自分という軸を持っているからこそ可能な“自由な譲歩”**である。

総括:「自己理解」という名の“愛の資格”

恋愛も結婚も、人と人との深い関わり合いである。

だが、その関わりを持つ前に、「私は何者なのか」という問いに誠実に向き合うことが求められる。

傷ついた自分

怒りやすい自分

寂しがりやの自分

愛したいと思っている自分

──そうした“ままならない自分”を拒絶せず、見つめ、受け入れること。

それこそが、“他人を愛する力”の源泉である。

愛する資格とは、他者に選ばれることではない。

自分という存在に責任を持ち、自分と共に生きる覚悟を持った人にこそ、愛する資格がある。

第8章:「成熟」とは何か──自立と愛の再定義

「成熟した愛」とは、一体どのようなものなのか。

愛において“成熟”が必要であることは理解されやすいが、その実体はしばしば誤解される。

加藤諦三教授は言う。

「成熟とは、他人を必要としないことではない。他人に依存せずに、なおかつ深くつながることができる力である。」

本章では、「成熟」とは単なる“精神的な大人”を意味するのではなく、“自立”と“愛”を両立させる高度な心の働きであることを、多くの誤解を正しながら紐解いていく。

8.1 “自立”は「孤立」ではない

自立という言葉を聞くと、「他人に頼らないこと」と捉えがちである。

しかし、それは“孤立”と混同されやすい。加藤教授はこの誤解を明確に否定する。

「真の自立とは、助けを求める勇気を持ち、必要なときに甘えられる力である。」

たとえば、感情をすべて自分の中で処理し、「一人で抱え込む」人は、見た目には“しっかり者”に見える。

しかしそれは、他人との関係を“恐れている”がゆえの自己防衛であり、成熟とは言い難い。

成熟した人間は、自己責任を引き受けたうえで、他者に心を開ける。

それは、「私は私のままでいていいし、あなたはあなたのままでいていい」という姿勢に根ざしている。

8.2 「依存」と「愛情」の違いを見極める

加藤教授は、しばしば「依存と愛を混同してはならない」と強調する。

依存とは、自分の存在価値を相手によってしか確認できない状態であり、常に“捨てられる恐怖”を抱えている。

一方で、愛とは、「相手がいなくても、自分が自分であることに誇りを持てる心」から始まる。

たとえば、相手が他人と話すだけで不安になったり、「私がいなければこの人はダメになる」と信じ込んでしまうような関係は、愛ではなく“共依存”である。

成熟した愛とは、**「一緒にいなくても、互いに成長できる信頼感」**を基盤にしている。

それは、相手を束縛せず、自分も他人に支配されない、自由で尊重された関係である。

8.3 “成熟”が結婚にもたらす静かな強さ

ある中年夫婦の例を挙げたい。

20年連れ添いながら、互いに過干渉をせず、しかし必要なときには自然と寄り添い、言葉を交わす。

彼らは互いを“所有物”とは考えず、あくまで“人生の伴走者”として尊重していた。

加藤教授はこうした関係性を、「成熟した関係」と呼ぶ。

それは「愛するとは、相手を自分の枠に押し込めることではなく、相手の存在そのものを認めること」である。

成熟とは、“愛されたい”という欲望を超え、“愛したい”という意志へと転じたときに現れる。

8.4 成熟した人は、「不完全な相手」を愛せる

未成熟な人間は、「完璧な恋人」「理想の夫・妻」を追い求め続ける。

一方、成熟した人間は、「不完全な相手を受け入れる自分」を育てていく。

加藤教授は語る。

「真に成熟した愛は、相手を変えようとはしない。そのままの相手と共に生きる力を持っている。」

人間は誰しも未熟で、欠点があり、矛盾を抱えている。

成熟とは、「その矛盾を責めず、共に揺れながらも、なお手を離さない選択」である。

総括:成熟とは、「自分の人生を生きながら、他人と響き合う力」

成熟した人間は、自分を放棄せず、相手に溶け込まず、しかし確かに「愛の絆」を築くことができる。

それは、「私が私であること」と、「あなたがあなたであること」を同時に尊重する態度であり、愛と自立の両立を体現した“心の成熟”である。

第9章:愛は「生きる力」──成熟と自由

愛するということは、ただ感情を注ぐことでも、自己を犠牲にすることでもない。

それは、人生をしなやかに生きるための“力”となる。

加藤諦三教授は、「愛とは、孤独と恐怖を越えて、他人と深くつながろうとする意志の表れである」と語る。

この章では、愛を「生きる力」としてとらえ、成熟と自由の関係性の中で、その意味を再定義していく。

9.1 「愛がある人生」はなぜ強いのか

加藤教授は述べる。

「人間の最大の力は、自分が“誰かにとって意味のある存在だ”と感じられることにある。」

この感覚は、社会的成功や物質的豊かさとは別の次元に存在する。

自分が愛されている、あるいは誰かを愛している──その感覚は、人間の内面に静かな安定と深い力を与える。

ある高齢男性の例を挙げよう。

長年連れ添った妻に先立たれたが、彼は毎朝「ありがとう」と呟いて花に水をやる習慣を持ち続けていた。

「妻のいない人生でも、彼女を愛した事実が、私を生かしてくれる」と彼は語る。

愛は、失われてもなお人を支える。

それは「生きる理由」であり、「生き抜く力」でもある。

9.2 「自由な人間」ほど、深く愛せる

加藤教授は、「自由」と「愛」は対立概念ではなく、むしろ愛は自由によって深まると考える。

「愛は、自分を縛るものではない。愛するからこそ、人は自分の意思で“共にいる”という選択ができる。」

自由とは、他人に依存しないことではない。

依存せずとも、「自分の意思で相手とつながる力」──それこそが、成熟した愛であり、生きるエネルギーである。

9.3 愛があるから、自分に戻れる

人はどれほど社会の中で迷い、疲れ、打ちひしがれても、帰る場所がある限り、何度でも立ち上がれる。

その「帰る場所」とは、物理的な家ではなく、「自分を無条件に受け入れてくれる誰かの存在」である。

加藤教授は言う。

「たった一人でも、自分を理解してくれる人がいれば、人はどんな苦しみにも耐えられる。」

愛は、人を“自分の原点”に戻す力を持っている。

それは、外の世界に翻弄されながらも、自分を見失わない“灯台”のようなものである。

総括:愛するとは、自分を肯定し、他者と共に生きる勇気を持つこと

「愛は弱さではない。愛は、もっとも強い人間が持てる力である。」

──加藤諦三教授のこの言葉は、愛にまつわるあらゆる誤解を打ち砕く。

愛とは、自己を知り、自己を肯定し、そして他者の存在を祝福する心の成熟のかたちである。

それは依存でも束縛でもない、人生を深く生きるための“生きる力”なのである。

【終章】「結婚に甘えない」ために必要な心の姿勢とは

「この人と結婚すれば、私は幸せになれる」

──その思いの中に、人はどれほどの「期待」と「依存」を込めているのだろうか。

結婚を「救済」として捉えたとき、人は無意識のうちに“結婚に甘える”。

つまり、自分の人生の責任を他者に預け、「あなたが私を満たしてほしい」という心の構造を築いてしまう。

加藤諦三教授は言う。

「人は自立していなければ、人を愛することはできない。愛するとは、相手にすがることではなく、共に生きることである。」

この終章では、「結婚に甘えない」とはどういうことか。そしてそのために必要な“心の姿勢”とは何かを、これまでの全章の学びを統合しながら描いていく。

1. 結婚は「完成」ではない。「成熟」の入り口である

多くの人は、結婚を「人生の完成形」と捉える。「結婚したら、ようやく安心できる」「孤独が終わる」と。

しかし加藤教授は、結婚を“新たな課題への出発点”と位置付ける。

「結婚してからが、自分自身を深く知り、他者と向き合う人生の本番である。」

結婚は、人生の“ゴール”ではない。むしろ、心の未成熟が可視化され、試される“訓練の場”である。

相手に依存することで生まれる安心は、やがて「愛されていないのではないか」という不安に変わり、関係を蝕んでいく。

2. 「相手に期待する前に、自分に問う」姿勢

「私を幸せにしてくれない」

「思っていた結婚と違う」

──こうした不満の多くは、他者への過剰な期待から生まれている。

だが、本当に必要なのは、「私は今、何を期待していたのか」「なぜそう思ったのか」と、自分の内側を見つめ直す姿勢である。

加藤教授は語る。

「他人を変えようとする人は、結局、自分を知らない人である。」

自分の感情、価値観、恐れ、怒り、そして愛──それらに対して責任を持てる人こそが、相手に対しても責任ある愛を注ぐことができる。

3. 「孤独」を抱えながら、他者と共に生きる覚悟

“結婚すれば孤独はなくなる”という期待こそ、もっとも大きな甘えである。

むしろ、結婚生活とは「孤独な自分」と「孤独な他人」とが共に生きる営みである。

加藤教授は、「孤独を恐れる人ほど、愛に飢え、支配的になる」と指摘する。

結婚においては、「孤独を抱えながら、それでも共にいる」ことを選ぶ自由と覚悟が必要である。

愛とは、孤独を完全に埋めてくれる魔法ではない。

愛とは、孤独と共に生きる勇気を、そっと手渡してくれるものである。

4. 「感情の責任を他人に委ねない」自律性

人間関係における最大の未熟さとは、「自分の感情を他人のせいにすること」である。

「イライラするのはあなたのせい」

「傷ついたのは相手が冷たいから」

こうした言い訳の裏には、自分の心をコントロールする力の欠如がある。

結婚において、自分の感情に責任を持つこと──それが“甘えない”第一歩である。

加藤教授は言う。

「人は自分の感情を引き受けることによって、初めて他者を受け入れられる。」

自律した人は、自分の不安や怒りを相手にぶつけることなく、自らの中でその感情と対話し、整理し、そして誠実に伝えることができる。

5. 「愛されること」より、「愛すること」を選ぶ

「どれだけ愛されているか」で自己価値を計る人は、愛において常に不安を抱える。

愛されることを追い求めるかぎり、人は“他人の目”に依存し、自分を見失っていく。

加藤教授の思想において、もっとも核心にあるのは次の一節である。

「人間は、愛されることで満たされるのではない。人を愛することによって、自分を知り、人生の意味を見出す。」

“結婚に甘えない”とは、自分の不完全さを誰かに埋めさせるのではなく、

その不完全さと共に「誰かを愛する」ことを選ぶ生き方である。

終わりに:「甘えない」結婚は、自分を深く生きることから始まる

結婚に甘えないということは、冷たくなることではない。

感情を殺すことでも、強がることでもない。

それは──

自分の人生に責任を持つこと

他人に埋めてもらわずに、自分の心を育てること

相手と対等に、成熟した存在として関わること

そして、愛することを“選び取り続ける勇気”を持つこと

結婚は、「二人で寄り添いながら、それぞれが“自分自身”として生きる道」である。

甘えではなく、共に成熟する営みとして、結婚という人生の旅路を歩むとき、

人は真に「愛することの意味」に目覚めてゆく。

加藤諦三教授の思想が示すのは、

“愛されたい”から“愛したい”へ──

“依存”から“共生”へ──

“期待”から“理解”へ──

そして“甘え”から“成熟”へ──

それは、人生を深く生きるすべての人に開かれた、「心の成熟の道」である。

ショパン・マリアージュ

(恋愛心理学に基づいたサポートをする釧路市の結婚相談所)
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