はじめに――結婚という幻想
人はなぜ結婚するのだろうか。恋に落ちたから。孤独が怖いから。家族が欲しいから。老後が不安だから。社会的に“ふつう”でいたいから。理由は様々であるが、加藤諦三教授はその著作群で、こうした理由の多くを「幻想」と断じてきた。
「愛されることで自分が癒されると思っている人は、結婚しても癒されることはない」
加藤のこの言葉に象徴されるように、彼は結婚を「癒しの場」として求める態度に対して警鐘を鳴らしている。むしろ結婚とは、自立した二人の人間が“共に在る”ことを選ぶという、「契約」であるべきだと説く。
本章では、「癒し」としての結婚と「契約」としての結婚の違い、そしてそれぞれが人間心理に与える影響について、具体的な事例を交えて論じていく。
癒しを求めた結婚の崩壊――Aさんの例
Aさん(女性・30代)は、子どもの頃から両親の喧嘩が絶えない家庭で育った。特に父親は無口で威圧的、母親は感情の起伏が激しく、「安心して甘える」経験をほとんど持たなかったという。大学時代に初めて交際した男性にのめり込み、彼が見せる優しさに「これが本当の家族なんだ」と思った。
しかし結婚して3年後、夫の態度が冷たくなったと感じ始める。彼は仕事が忙しく、Aさんの不安や孤独に対して無関心だった。Aさんは、頻繁に「どうして私を愛してくれないの?」と詰め寄るようになり、やがて関係は破綻した。
加藤諦三はこう述べている。
「愛されることを求める人は、自分の欠けを相手で埋めようとする。だが、その埋め方はいつも不安と苛立ちを伴う」
Aさんのように、愛されることに依存し、相手からの癒しを期待しすぎると、相手との健全な関係性は築けない。なぜなら、それはもはや“共に生きる”という契約ではなく、“私を癒してくれる存在”という役割を相手に押しつけているに過ぎないからだ。
「契約としての結婚」への視点
それでは、加藤が語る「契約としての結婚」とはどのようなものか。彼は、結婚において最も重要なのは「成熟した人格と対等な関係性」だと繰り返し述べている。
「結婚とは、愛することではなく、愛し続ける決意である」
契約とは一時の感情ではなく、理性的な選択であり、互いの人生観・価値観をすり合わせたうえで成り立つものだ。たとえば、Bさん(男性・40代)は10年以上交際したパートナーと結婚した。二人とも互いの独立性を尊重し、別居婚の形を選んだ。
この夫婦は、経済的にも精神的にも自立しており、相手に過度な期待をせず、生活スタイルや意思決定も話し合いで進めるという「契約的な」関係を築いていた。Bさんは「愛しているが、依存していない」と語る。この姿勢こそ、加藤の理想とする「対等な結婚」である。
幼少期の愛情経験が結婚観に与える影響
加藤諦三は、その著作や講演で幾度となく「結婚とは、過去の感情体験の延長である」と述べている。とりわけ幼少期に形成される愛着スタイルや親子関係が、成人後の結婚観やパートナー選びに直接的な影響を与えるという点を、心理学的な視点から重視している。
愛されなかった記憶が「結婚」に救いを求めさせる
例えば、加藤がたびたび引用する「無条件の愛を経験できなかった子ども」の例がある。幼少期に母親から愛されているという実感が乏しいまま育った子どもは、「いつか誰かが自分を本当に愛してくれる」と期待し、その“誰か”の代表として「結婚相手」に強い意味付けをするようになる。
彼らにとって、結婚とは単なる人生の通過儀礼ではない。それは「心の空白を埋める儀式」であり、「人生をやり直すチャンス」としての意味を持つ。だが、加藤はそうした期待にこそ結婚の落とし穴があると警告する。
「幼少期に得られなかった愛を、結婚で回収しようとする人は、常に不満を抱える。なぜなら、結婚相手は“親の代わり”ではないからだ」
事例:親に愛されなかったC子の“執着の恋”
C子(仮名・20代後半)は、小学生のころから母親に「お姉ちゃんなんだから」と感情を抑えるよう強いられ続けた。自分の寂しさや不安を表現することは「わがまま」とされ、やがて「甘える=悪」と無意識に学ぶようになった。
大学時代、初めて付き合った男性Dに、C子は強烈に依存した。Dは、最初こそ彼女にやさしく接していたが、交際が進むうちに束縛やヒステリックな言動が増すC子に疲弊し、別れを告げた。
C子は納得できなかった。「あんなに尽くしたのに、どうして捨てられたの?」と彼女は泣いたが、その“尽くし”とは、「自分が無償で愛される価値があるかどうかを確かめる行為」だった。加藤が言うように、愛された記憶がない人ほど、愛されたいがために自らの存在を犠牲にする。
「愛された体験のない者は、“試す”ことでしか愛を確かめることができない。そして、試された側は疲れて去っていく」
C子のような人にとって、結婚は「安心の保証」であり、「捨てられない権利」だった。だが、加藤は明確に指摘している。結婚とは救済ではない。結婚しても孤独感は癒されない。むしろ、過去の空虚を埋められなかった現実に直面し、さらに傷つくことになる。
愛着スタイルと結婚選択の関係
心理学においては、幼少期に養育者と築く「愛着スタイル」が、成人後の恋愛や結婚のスタイルに大きく関与するとされている。加藤もこれに類似する理論的背景を著書で展開している。
安全型:適切に愛され、感情表現の自由を許された子どもは、結婚相手との信頼関係を築きやすくなる。
不安型:不安定な愛情や条件付きの愛を受けて育った人は、過度な依存や嫉妬に悩まされやすくなる。
回避型:過干渉あるいは冷淡な養育を受けた人は、親密さそのものを恐れ、距離を保とうとする。
加藤は、特に「不安型」が結婚生活において衝突を招きやすいと指摘する。相手の言動の裏を常に探り、「捨てられる不安」に苛まれ、やがてその不安が現実を引き寄せてしまう。
結婚に対する“救済幻想”の危うさ
「この人と結婚すれば、きっと私の人生は変わる」「誰かと結婚すれば、孤独から解放されるはずだ」──こうした幻想を私たちはどこかで抱いてしまう。映画やドラマ、小説の中では、結婚が“人生のゴール”として描かれ、そこに辿り着けばすべてが報われるような錯覚が広がっている。
しかし、加藤諦三教授は、こうした「結婚によって過去の心の傷を癒し、人生を救ってもらえる」という期待を“救済幻想”と呼び、その危うさを繰り返し説いてきた。
結婚は“人生を変える魔法”ではない
加藤はこう述べている。
「結婚は心の穴を埋めてくれる薬ではない。むしろその穴を直視させられる鏡である」
結婚は、外から与えられる幸福ではなく、内なる成熟によって初めて意味を持つ関係である。自己肯定感の欠如や孤独感、過去のトラウマといった心の未解決課題を抱えたまま結婚したとしても、それは相手に“癒し役”や“人生の代弁者”の役割を強制することになり、結果として関係を歪めてしまう。
事例:Fさんの「結婚すれば救われる」信仰
Fさん(女性・30代前半)は、キャリアウーマンとして活躍しながらも、常に「誰かに認められたい」という欲求を抱えていた。幼少期から両親の期待に応えようと努力してきたが、満たされた実感はなかった。
そんな中で交際を始めた男性Gは、Fさんを「すごい」と賞賛し、「君となら家庭を築きたい」と話してくれた。Fさんは「やっと私を理解してくれる人が現れた」と思い、半年で結婚を決意した。
だが、結婚生活が始まって数ヶ月、GはFさんに対して「もっと家庭的でいてほしい」「仕事ばかりで冷たい」と不満を口にするようになった。Fさんは次第に自己否定に陥り、「この人でさえ、私を愛してくれないのか」と絶望し始めた。
このような展開は、まさに加藤が指摘する「救済幻想の破綻」である。Fさんは「誰かに満たしてもらう」ことで自己価値を取り戻そうとしていたが、その期待は相手にとって過剰な負担となり、関係そのものが破綻していった。
「結婚に過剰な期待をする人は、常に裏切られる運命にある。なぜなら、その期待は自分自身の空虚さから来ているからだ」
結婚の現実:癒されるのではなく、晒される
加藤は、「結婚とは人間の欠点が露呈される舞台である」とも述べている。恋愛中は見えなかった価値観の違いや感情的な反応、そして“本当の自分”が、共同生活の中で容赦なく現れてくる。
この現実に直面したとき、過去の痛みを隠すために築いてきた“仮面”が崩れ、「救ってもらえるはずだった相手」が、実は自分を一番深く傷つける存在になることもある。これは加藤が一貫して指摘している、「結婚相手は自分の内面を投影する鏡」という視点に他ならない。
幻想を超えて、成熟へ
では、私たちはどのようにしてこの“救済幻想”を超えることができるのだろうか。
加藤は、「まず自分自身を救うこと」が先だと言う。
自分の孤独を見つめる
他者に依存せず、自分で自分の価値を認める
完璧な相手や、無条件に自分を愛してくれる理想像を手放す
そうした内面の成熟がなされて初めて、結婚は“癒しの場”ではなく、“共に在ることを選ぶ関係”として成立する。
結婚に救済を求めてはいけない。結婚は、過去を塗り替えてくれる物語ではない。むしろ、過去を受け入れ、現在を生きる覚悟を持つ者だけが、その関係の中に「真の安心」と「共感」を見いだせるのだと、加藤諦三は私たちに語りかけている。
結婚における「不安」と「支配欲」の心理メカニズム
加藤諦三教授は結婚を「精神の成熟が試される場」と表現することがある。結婚は単なる制度的な契約ではなく、人間の深層心理に潜む感情──とりわけ「不安」と「支配欲」との対峙の場であるという考え方だ。愛し合うことを誓ったはずの二人が、なぜ時に互いをコントロールし合い、傷つけ合うのか。その根底にあるのは、「不安」の感情が引き起こす「支配」への衝動である。
愛と不安の共存
恋愛や結婚において、人は「愛されているかどうか」という確証を求める。それ自体は自然な欲求だが、自己肯定感が低い場合、この欲求はやがて「不安」に転化し、その不安が「支配」という形で現れてくる。
加藤は次のように述べている。
「不安な人は、相手を信じるのではなく、相手をコントロールすることで安心しようとする」
たとえば、「何をしているの?」「誰と会っていたの?」というような過剰な確認や、予定や行動のすべてを把握しようとする態度は、支配の表れである。そしてこれは、しばしば「愛の証」と錯覚される。
事例:Eさんの「不安ゆえの監視」
Eさん(男性・30代)は、恋人であり妻となったHさんに対し、付き合い始めの頃から一貫して「愛情深い人」だった。だが、交際が深まりHさんが仕事で忙しくなると、Eさんの態度が変わり始めた。
Hさんが残業で帰宅が遅れると、「本当に会社だったのか」と疑い、SNSの投稿内容まで逐一チェックするようになった。やがて、携帯の履歴確認や友人関係の制限にまで及ぶようになり、Hさんは精神的に疲弊し始めた。
Eさんは「君を心配してるだけだ」と言い続けた。しかし実際には、「愛されていないのでは」「見捨てられるのでは」という根底の“不安”が、自らの関係を破壊していた。
加藤はこのような現象について、次のように指摘している。
「相手の自由を奪うことでしか安心できない人は、真の愛を知らない。彼らは安心ではなく、服従を愛と混同している」
支配欲は“愛の仮面”を被る
支配欲はあからさまに表れるとは限らない。むしろ多くの場合、それは「愛するがゆえに」という“美しい動機”に偽装される。加藤はこれを「愛の仮面をかぶったエゴ」と喝破している。
「あなたのためを思って言っている」
「私だけを見ていてほしい」
「愛しているなら、それくらいできるよね?」
これらは一見、関係を良好に保とうとする姿勢にも見えるが、実際には相手の主体性を奪い、自分の不安を埋めるための道具にしている行動である。
支配は、愛とは正反対の動機に根ざしている。なぜなら、愛とは「相手をそのまま受け入れること」であり、支配とは「相手を自分の都合のいいように変えようとすること」だからである。
支配から自由への転換には何が必要か
では、不安に駆られた支配的な愛情関係から、どうすれば解放されるのだろうか。
加藤は、「自己受容」と「信頼の再構築」が鍵だとする。
まず自分の不安と向き合う勇気を持つこと
「相手が悪い」のではなく、自分の心にある“見捨てられ不安”を直視する。
信頼は「証明されるもの」ではなく「与えるもの」
愛するとは、「相手を自由にすること」であり、不安を抱えながらも信頼を投げかけるという決断である。
精神的に自立する
「この人がいなくなったら私はダメになる」という発想から、「私は私で大丈夫。だから一緒にいたい」という成熟した依存関係へ。
結語:不安と支配を超えて
結婚とは、二人の人間の「人生の交差点」である。しかしその交差点において、過去の傷や心の癖がぶつかり合うと、愛の名のもとに支配が始まる。加藤諦三は、それを「愛の歪み」と呼んだ。
不安を消すために他者を縛るのではなく、不安と共にある自分を受け入れ、他者を信じること。そこからしか、成熟した結婚は始まらない。
結婚生活における最大の敵は“相手”ではない。それは、私たちの中にある「愛されないかもしれない」という原初の不安なのだ。
締めくくり:成熟した結婚への道
人は誰しも、安心を求めて生きている。愛されたい、理解されたい、孤独から救われたい――これらの願いは、誰にとっても普遍的なものである。しかし、加藤諦三教授が一貫して語ってきたのは、「その安心を他者にゆだねる限り、人は本当の意味で救われることはない」という、厳しくも深い心理的真実である。
結婚とは、自己の未熟さを誰かに癒してもらう関係ではない。結婚とは、自立した二人の人間が、それぞれの人生に責任を持ち、なおかつ「共に在る」ことを選び続ける意志の契約である。加藤の思想は、そこにこそ本物の成熟が宿ると説く。
成熟とは、「愛されること」よりも「愛すること」
加藤はこう語る。
「愛することでしか、人は癒されない。誰かに愛されることを待ち続ける人生では、いつまでも心の飢えは満たされない」
この言葉は、結婚における「受け身の幻想」から「能動の責任」へと視点を転換させる鍵である。成熟した結婚とは、相手を変えようとするのではなく、自分が愛する力を育て続ける関係性である。
「なぜ彼はわかってくれないのか」「なぜ彼女は私を満たしてくれないのか」という問いから、「私はどうしたら、この人を幸せにできるか」「私はどう在れば、関係が健全になるか」という問いへの移行。それが、結婚を愛の消耗戦ではなく、愛の創造へと変えていく。
「私たち」ではなく「私が」「あなたが」
成熟した結婚においては、「二人でひとつ」という幻想もまた、卒業すべきである。加藤は、人間関係の健全さとは「心理的距離の適切さ」にあると説いている。自分を失ってまで相手に合わせることは、愛ではない。それは、同一化という名の自己喪失に過ぎない。
たとえば、家事も子育ても仕事も“なんとなく”分担されるのではなく、それぞれが「私はこう考える」「あなたはどうしたいか」と、対話を積み重ねる。その積み重ねこそが、成熟の証である。
「私がいる」「あなたがいる」――その上で初めて、「私たち」が存在できるのだ。
愛は結果ではなく、態度である
加藤はまた、「愛は感情ではなく、態度である」と言う。これは一過性のロマンティックな感情ではなく、日常の中に現れる「態度」、すなわち“言葉の選び方”“感情の扱い方”“相手への反応のしかた”にこそ、愛の成熟度は反映されるという考え方だ。
成熟した愛とは、相手の過ちを責めず、受け入れる態度。忙しい一日の終わりに、沈黙を共有できる安心感。言葉にしなくても伝わる信頼。それらはすべて「態度」の中に育まれる。
「結婚とは修行である」という真意
加藤諦三は、ある著書の中で「結婚とは自己成長のための修行である」とも述べている。これは、結婚が苦しみであるという意味ではない。むしろ、結婚という関係性が、人間の未熟さを照らし出し、成長をうながす“鏡”のような存在であるという意味である。
自分の未熟さを見せられたとき、人はそれを相手のせいにすることもできるし、自分の成長の糧とすることもできる。その選択こそが、結婚を「癒し」から「契約」、さらには「成長」へと昇華させる道である。
結婚とは、共に成熟していく道
最後に、加藤諦三の結婚観を要約するならば、それは「共に成熟していく道を選び取ること」だろう。愛し合うとは、相手の成長を願い、自分もまた成長していく覚悟を持つことだ。そこには、過去を癒す幻想も、未来を保証する契約もない。ただ、今この瞬間の相手と、自分に誠実であり続けることだけがある。
愛は、努力である。信頼は、訓練である。そして結婚は、そのふたつを積み重ねていく人生の旅路である。