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愛とはその人のために何を失うことができるか―加藤諦三教授の思想に学ぶ真の愛のかたち―

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愛とはその人のために何を失うことができるか―加藤諦三教授の思想に学ぶ真の愛のかたち―
第一章 愛の定義と加藤諦三の視点

「愛とは、その人のために何を失うことができるか――それが本当の愛だと、私は思うのです。」
——加藤諦三『愛するということ』

この言葉は、単に恋愛の情熱や献身を語るものではない。そこには、人間の存在そのものをかけた「関係性」の本質が問われている。愛とは、与えることではない。ましてや、何かを得ることでもない。加藤諦三は、自著の中で繰り返し「愛とは、自分を超えて相手の存在を受け入れること」であると語る。その延長線上にあるのが「何を失えるか」という問いであり、これは一見残酷なようでいて、実はもっとも人間的な問いでもある。

加藤諦三は『愛するということ』において、「人間は孤独であり、同時に他者とつながりたい存在である」と述べる。そしてその矛盾する人間の本質を踏まえたうえで、真の愛とは「他者を操作しようとする気持ちを手放すこと」であり、さらには「自己のエゴを犠牲にする勇気を持つこと」にあるという。これは単なる自己犠牲ではなく、相手の幸せのために自分の欲望を脇に置けるという“成熟”を意味する。

例えば、恋愛においてよくあるのが「自分のものにしたい」「相手を独占したい」という感情だ。しかし加藤は、そうした感情は愛ではなく“依存”であるとする。真の愛は、「相手が自分から離れていっても、相手の幸せを願える」感情だという。つまり、何かを失ってもその人の幸せを祈れる――それが愛だ。

この章ではまず、加藤諦三の考える「愛の定義」とは何か、そしてその愛において「失う」とはどういうことなのかを整理することで、本書全体の基盤を築いていきたい。

第二章 エゴと愛の違い──依存ではなく「自立した関係」

加藤諦三がたびたび強調するのは、「エゴ」と「愛」の混同である。多くの人が、相手に尽くすことや、自分を犠牲にすることを「愛」と勘違いするが、実際にはそれは「自己愛」であることが多いという。

たとえば、相手に好かれたい一心で何でも言いなりになる人がいる。彼らは一見、自己犠牲的に見えるが、実は「好かれたい」「嫌われたくない」という自分の感情に突き動かされている。このような愛は、やがて「こんなに尽くしているのに、なぜ分かってくれないのか」といった怒りや失望に変わる。

加藤はこうした愛を「取引の愛」と呼ぶ。つまり「私はこれだけやったのだから、あなたも私に報いてほしい」という無意識の取引である。これは愛ではなくエゴだ。真の愛とは、相手に何かを期待しないことであり、相手が自分の思い通りにならなくても、その人を受け入れられることである。

自立した関係とは、自分と相手がそれぞれに確立された個人として存在し、その上で関係を築いていくことである。その関係には「支配」も「従属」もない。ただあるのは、尊重と信頼だ。失うことを恐れない人だけが、本当に愛することができるのだ。

第三章 失う勇気──自己犠牲ではなく「成熟した自己放棄」

「失うこと」を受け入れることは、人間にとってもっとも難しい課題である。加藤諦三はその過程を「自己放棄」と呼ぶが、これは自己犠牲とは異なる。自己犠牲は「自分を否定すること」であり、成熟した自己放棄とは「自分の欲望やエゴを、より大きな愛のために手放すこと」である。

ある女性が、長年付き合ってきた恋人が夢を追いアメリカへ行くと言ったとき、「行かないで」と言う代わりに、「あなたの夢が叶うなら、応援したい」と送り出したという話がある。彼女は、恋人という存在を失う痛みを受け入れたが、それは彼の幸福を願う愛からだった。このような行動は、加藤の言う「成熟した愛」の典型である。

この章では、何を失えるかという問いに対して、人はどのように自分を超えていけるのか、実例を通して探っていく。

第四章 家族愛における喪失と成長──親と子の距離

親はしばしば「子どものためにすべてを捧げる」と言う。しかし、それが本当に子どものためなのか、自分の不安を解消するための行動ではないか、加藤諦三はそこに鋭い疑問を投げかける。

たとえば、子どもが自立して一人暮らしを始めたいと言ったとき、「心配だからやめてほしい」と言う親がいる。これは愛ではなく、自己の安心を守る行動である。真の親の愛とは、子どもの自立を応援し、自らは寂しさや不安という「喪失」に耐えることである。

子育てとは、究極的には「手放す」過程である。子どもが親を必要としなくなることは、親にとっては一種の死のような体験である。しかしその中で、親は親としての成熟を遂げ、子もまた自立した人間として成長する。

本章では、家族関係における「愛ゆえの喪失」とその心理的意味を掘り下げていく。

第五章 恋愛と喪失──相手の自由を許せるか

恋愛において、最も苦しい瞬間とは「相手が自分のもとを去る時」かもしれない。しかし、その時こそ、愛の真価が問われる。加藤諦三は「愛するとは、相手を自由にすること」と繰り返し説いてきた。

恋人が夢を追い、別の街に移り住む。新しい人間関係を築き始める。連絡が減り、やがて疎遠になっていく――。こうした状況のなかで、多くの人は不安や怒りを覚える。しかし、その時に「相手の幸せを自分のことのように願えるかどうか」が、愛か執着かを分ける分岐点である。

加藤の視点では、「相手が自分を選ぶこと」は奇跡であり、それを当然と考えるのは傲慢であるという。むしろ、相手が自由に選べる状態にあり、その中で「一緒にいたい」と思ってもらえる関係こそが健全である。

恋愛とは、相手を囲い込むものではなく、相手を自由に羽ばたかせるものである。だからこそ、恋愛における愛の証明とは「相手の自由をどれだけ許せるか」に尽きるのだ。

第六章 実例1:介護を通して見えた愛のかたち

60代の夫婦、妻は若年性認知症を発症し、夫は介護に追われる日々を送っていた。当初、夫は「こんな生活、もう耐えられない」と自分の人生を嘆いていた。しかし数年が過ぎた頃、彼は変化した。「彼女がもう私を覚えていなくても、私は彼女のそばにいたい」と語ったのだ。

この言葉にあるのは、見返りのない愛である。相手から「愛されている」という確証が消えても、なお続ける関係。それは「失うこと」を受け入れた先にある、新しい愛のかたちである。

介護という行為は、時間も体力も、時には尊厳すら奪う。その中でなお「相手の存在が大切だ」と思えること。それが、「その人のために何を失うことができるか」という問いに対する、ひとつの答えとなる。

第七章 実例2:死別とその後に芽生えるもの

ある女性は、結婚して半年で最愛の夫を事故で亡くした。彼女は絶望の中で数年を過ごしたが、あるとき日記にこう書いた。「私は彼を失ったけれど、彼との日々は、今の私を生かしてくれている」。

喪失は時に、人を破壊する。しかし、それを経てなお「その人と出会えてよかった」と思えるとき、人はそこに“愛”を見出すのだ。

加藤諦三は「喪失を経た人は、かつてないほど他者に優しくなれる」と述べている。死別という究極の別れを通して、人は無力さを受け入れ、愛の深さを知る。その深さは、もう失いたくないからこそ、次に出会う誰かを大切にする態度として現れる。

第八章 実例3:愛ゆえの別れ──別れることで守れるもの

恋愛において、「別れ」は失敗の象徴として語られることが多い。しかし加藤諦三は、別れこそが真の愛の選択であることもある、と説く。

ある男性は、依存的な恋人との関係に苦しんでいた。彼女の感情の波に飲まれ、心が疲弊しきっていた。ある日彼は、こう言った。「彼女を本当に愛している。でも、このままだと彼女も僕も壊れてしまう」。そして彼は別れを選んだ。

それは、自己防衛であると同時に、彼女を守る行為でもあった。関係を維持することよりも、「互いを壊さないこと」を優先したその決断は、「与える愛」ではなく「見守る愛」である。

愛ゆえに離れること。それもまた、「その人のために失えるもの」のひとつなのだ。

第九章 精神分析と愛──フロイトからエーリッヒ・フロム、そして加藤諦三へ

愛というテーマを心理学的に論じるうえで、フロイトやエーリッヒ・フロムの貢献は計り知れない。加藤諦三の愛に関する思想もまた、この二人の影響を色濃く受けている。

フロイトは「愛」を本能的な欲求、特に性的エネルギー(リビドー)の表現として捉えた。愛は快楽原則の中で、自己保存の本能と交差する衝動に位置づけられ、そこには常に無意識の葛藤が存在する。加藤はこの視点を踏まえ、愛の背後にある「依存」や「支配」の欲求を見抜こうとした。

一方、エーリッヒ・フロムは『愛するということ』で、愛を技術として学ぶべきものであり、それは成熟した人格と訓練によって育まれると説いた。彼にとっての愛は、「理解」「配慮」「責任」「尊重」という4つの柱で成り立ち、愛は感情ではなく「意志」であった。

加藤諦三はフロムの影響を直接的に受け、「愛とは相手を自由にすること」「愛とは見返りを求めないこと」といった視座を明確に表現している。特に、自己愛と他者愛を峻別し、「愛は自立の上に成り立つ」という加藤の理念は、フロムの思想と響き合うものである。

この章では、加藤諦三の愛の概念が精神分析学の文脈でどのように形成されたのか、その思想的系譜を明らかにし、現代における愛の理解にどのような示唆を与えるかを考察する。

第十章 愛を通して人はどう成長するか──愛と喪失の心理的循環

愛することは、単なる感情の発露ではなく、精神的な成長の契機である。加藤諦三は、人が他者を深く愛する過程で、自分自身の内面と向き合い、エゴを手放し、より高次の自己に到達すると説いている。特に「喪失の受容」という経験は、人間を成熟させるもっとも大きな要因の一つである。

愛によって何かを失うこと──それは、自己の一部を手放すことでもある。期待、依存、独占欲、優越感、そうした心の構造が崩れるとき、人は一時的に不安定になるが、その空白に新たな価値観や視点が芽生える。加藤はこのプロセスを「心理的循環」と捉えている。愛→喪失→空白→再構築という流れの中で、人は自己の再定義を迫られる。

たとえば、失恋によって自分の未熟さに気づいた人が、新たな人間関係ではより深い共感を持てるようになる。親を亡くした喪失の中で、「生きているうちにもっと愛せばよかった」と後悔し、それ以降の対人関係を大切にするようになる。そうした一連の変化は、すべて「愛ゆえの喪失」から始まっている。

加藤は、成長する人とそうでない人の差を「喪失の受け止め方」に見る。喪失を否定し、怒りや執着に変える人は停滞する。しかし、喪失を受け入れ、それを自己変容の機会と捉える人は、人生の質そのものを深めていく。

この章では、愛と喪失の心理的循環を通じて、いかに人が成長するかを多面的に考察する。

第十一章 愛の最終形とは何か──宗教的観点からの考察

加藤諦三の著作の根底には、しばしば宗教的、あるいは哲学的ともいえる静謐なまなざしがある。愛の最終形とは何か。その問いは、人間存在の根源にまで迫る深遠な問題であり、古今東西の宗教思想が繰り返し向き合ってきたテーマでもある。

キリスト教において、愛(アガペー)は「無償の愛」「赦しの愛」として表現される。神は人間に対して無条件に愛を注ぎ、その愛を人もまた隣人へと広げていくことが求められる。仏教では「慈悲」として、他者の苦しみを自らのこととして引き受ける心が重んじられる。いずれも、自我を超えたところにある愛を理想とする。

加藤諦三が説く「その人のために何を失うことができるか」という命題は、まさにこの無私の愛に通じている。つまり、相手がどうであれ、自分が何を得られるかにかかわらず、ただその存在を尊び、守ろうとする心。そこには、計算も見返りもなく、あるのは「与えることそのものに意味がある」という静かな覚悟がある。

この境地は、必ずしも宗教を信仰することによってのみ到達できるわけではない。むしろ、深い喪失や痛み、孤独を経験した人間が、それでもなお他者を思うという行為の中で、自然と到達するものである。

加藤は、愛の最終形として「共に生きることの尊さ」を強調する。これは、どんなに脆く、不完全な人間であっても、他者と関係を築くことで初めて完成していく存在であるという認識である。

この章では、加藤諦三の愛の哲学を、宗教的な観点と照らし合わせながら、愛の「最終形」を探っていく。

終章 「失うことを恐れない」愛へ向かって

愛するとは、相手のために自らの一部を差し出すこと。そして時に、愛するがゆえに、自らの欲望や安定、安心といったものを手放すことでもある。加藤諦三は、愛を「喪失を受け入れる力」として繰り返し語ってきた。

これまで本書では、「その人のために何を失えるか」という視点から、恋愛、家族、介護、死別など多様な場面を取り上げ、愛のかたちを見てきた。そこに共通していたのは、「相手の自由を受け入れること」「見返りを求めないこと」「自らのエゴを超えること」だった。

現代社会において、人はしばしば愛を「所有」や「取引」と混同する。SNSや情報の過多、効率主義が浸透した世の中で、愛ですら即時的な結果を求めがちである。しかし本来、愛は時間のかかる営みであり、成熟には喪失という試練が不可欠である。

「失うことを恐れない」という態度は、決して諦めや放棄ではない。それはむしろ、自らの深部に根ざした信頼であり、「たとえ何も残らなくても、相手を愛したという事実が自分を満たす」という究極の境地である。

加藤諦三の言葉に戻ろう。「愛とは、その人のために何を失うことができるか」――この問いは、これからも私たちの心に投げかけられ続けるだろう。そして、いつかその問いに対して、自信を持って「私はこれを失うことができる」と答えられる時、私たちは真に“誰かを愛した”と言えるのかもしれない

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