第2章:加藤諦三の『愛』概念の核
愛とは「技術」である──はじまりの問い
「愛は感情ではない。愛は技術である。」
この言葉で幕を開けるエーリッヒ・フロムの『愛するということ』は、読み手に衝撃を与える。「愛する」という行為が、ただ自然に湧き上がる感情ではなく、学び、育み、練習していく「技術」である――そのような思想は、我々が恋愛や家族関係において経験的に感じてきた不安や齟齬に、静かに道標を差し出してくれる。
加藤諦三教授は、この思想をさらに深く日本社会の中で展開する。
彼にとっての「愛」とは、自己と他者のあいだに静かに流れる“深い肯定”の流れであり、個人が「自分」を取り戻すための根源的な力である。
「配慮」──沈黙のぬくもり
ある女性の話がある。彼女は母を早くに亡くし、父親の手ひとつで育てられた。だがその父は、感情をあまり表に出さず、彼女が熱を出してもただ遠くから「水を飲め」と言うばかりだった。
彼女はこう語った。「私が本当に欲しかったのは、“水を持ってきてくれる手”でした。」
このエピソードが象徴するのは、「配慮」とは言葉以上の“行為”であるということだ。加藤は語る。人は配慮を受けることで初めて「自分には価値がある」と感じるのだと。
配慮とは、他者の存在を「ただ見る」のではなく、「見守る」こと。
存在の周囲に温度を宿すこと。
たとえ言葉がなくとも、ひとつの湯呑みを差し出すような行為に、人は深く慰められる。
「責任」──逃げずにいる勇気
責任という言葉には、ともすれば重苦しさがつきまとう。だが、加藤の語る責任とは、「逃げない」ということだ。
それは義務の遂行ではない。他者の苦しみに“耳をふさがない”という、意志の姿勢なのである。
あるとき、加藤は講演の中で、虐待を受けた子どもが後に自分の子を殴ってしまう例を挙げ、「彼は責任を放棄したわけではない。ただ、“自分の中の痛み”を見つめる責任から逃げたのだ」と言った。
真の責任とは、他者の人生を引き受けることではなく、自分の感情に正直でありつづけることでもある。
「尊敬」──変化する自由を許す
加藤諦三は言う。「尊敬とは、相手が“変わっていく存在”であることを喜べるかどうかである。」
愛する者を「こうあってほしい」と願うのは、しばしば支配欲に近い。
しかし、尊敬とは、相手が自分の期待通りではなくなることを許容する愛である。
それは、他者が“自分とは異なる存在である”ことを祝福する行為だ。
ある老夫婦の話がある。結婚40年目、妻が突然「絵を描きたい」と言い出した。
夫は最初驚いたが、数日後、何も言わずに画材セットを贈ったという。
愛とは、他者が自分の知らない地平を歩く自由を、黙って認めることなのだ。
「理解」──沈黙の奥にある声を聴く
「言葉にならない苦しみを、理解してくれる人がいたら、それだけで人は癒される」と加藤は繰り返す。
理解とは、知的な把握ではない。「その人の沈黙」を理解する力である。
加藤が引用するフロムも、「理解とは共感であり、相手の内的世界を体験すること」と語っている。
ある引きこもりの青年が、3年ぶりに外に出たきっかけは、姉が部屋の前にそっと置いた、一冊の詩集だったという。
その詩にはこう書かれていた。
「君が何も言わなくても、
僕は君のうしろで、君の泣き声を聴いている。」
理解とは、言葉を超えた対話である。
加藤の愛の哲学は、その静謐な共振を何より大切にしている。
自己愛と他者愛のゆらぎ
加藤が最も深く掘り下げるのは、「自己愛」と「他者愛」の関係性である。
彼は一貫して、「自分を愛せない者は、他人を愛することもできない」と語る。
だが、この自己愛は、ナルシシズムとは異なる。
それは、自分の傷を否定せずに抱きしめ、自分の弱さを見捨てないという、**“自分との同盟”**である。
フロムが「成熟した愛とは、与えることそのものである」と語ったように、加藤の言う愛もまた、自己のうちなる深い井戸から汲み上げる水である。他者を潤すには、自分自身がまず潤っていなければならない。
結び──愛は「始まり」ではなく、「始めること」
加藤諦三の思想において、愛は「出発点」である。
だが、それは、誰かから与えられるスタートラインではなく、自分で始める“生き方”としての出発点である。
「過去に愛されなかったから」としても、人は今ここから、自分を愛すること、他人を理解しようとすることを選び取ることができる。
愛とは技術であり、訓練であり、意志である。
そしてそれは、文学や芸術と同じく、人生を深く、豊かにしていく表現行為なのだ。
第3章:愛の欠如が生む心理的影響
1. 心の空白──「私はここにいていいのか」という問い
ある男がいた。
社会的には成功し、周囲の誰もが「勝ち組」と呼ぶような人生を歩んでいた。
だが、ある日ふと、鏡に映った自分を見つめながら、彼は呟いた。
「誰かに、“あなたがそこにいるだけでいい”と言われたかった。」
この一言は、愛の欠如が生み出す静かな空白を見事に物語っている。
愛されなかった記憶は、表層では忘却されることがあっても、自己存在への疑念として深層に残り続ける。
それはまるで、見えない霧のように日常を包み、人生のあらゆる選択に影を落とす。
加藤諦三は、こうした心のありようを「自分に価値があると信じられない人」と定義する。
そしてその根底には、「愛されたという感覚」が欠けている。
2. 愛の代替物──承認欲求の牢獄
加藤は繰り返し述べる。
「人は、愛されていないとき、評価されることにしがみつく。」
それはまさに、承認欲求という代替物の誕生である。
自分の存在価値を、他人の目に映る「役に立つ自分」「好かれる自分」「優れた自分」に託してしまうのだ。
ある若い女性は、SNSに自分の写真を毎日投稿し続けていた。
1日に100件以上の「いいね」がつかなければ、自分の存在が消えてしまいそうになるという。
「それは承認欲求じゃなくて、“愛されたい欲求”だったんです」と、彼女は後に語った。
承認欲求は、愛の不在から生まれる亡霊のようなものである。
誰かに見られたい、誰かに求められたい、その叫びは本来、ただ静かにそばにいてほしいという願いの変形にすぎない。
3. 自己否定という習慣病
愛されなかった人は、しばしば自分自身に対して残酷になる。
それは、虐待の言葉を浴びせられたからではない。むしろ、何も言われなかったこと、無視されたこと、笑いかけられなかったことが、魂に深い傷を残す。
「あなたは何も悪くない」と言われても、心のどこかで「でも私は価値がない」と感じてしまう。
その矛盾こそが、愛の不在が生む「自己否定」という呪縛である。
加藤はこう語る。
「愛されなかった人間は、失敗を過剰に恐れる。なぜなら、そのたびに“やっぱり私はダメなんだ”という思いが蘇るからだ。」
つまり失敗は、過去の記憶に直結してしまう。
そうして人は、挑戦を避け、自己卑下を口癖とし、自分という存在を、他人より先に否定する癖を身につけてしまう。
4. 依存と攻撃──愛されたいのに壊してしまう人
「どうして私を見てくれないの!」
恋人のスマホを深夜に盗み見し、疑念をぶつけて泣き叫ぶ。
その姿の奥には、**「見捨てられる恐怖」**がある。
加藤は、愛を求めすぎるあまり、逆にそれを破壊してしまう人々の心理を、「依存的性格」として描いている。
彼らは常に不安に苛まれており、他人の一挙手一投足を「見捨てる前兆」として読み取る。
ある男性は、交際相手がLINEの返信を5分遅らせただけで「俺のこと好きじゃないんだろ」と詰め寄った。
彼にとって、「即時の返信」は「愛の証明」であり、それが崩れることは自己存在の否定に等しかった。
一方で、愛されない怒りは、攻撃性としても噴出する。
加藤は語る。「愛されなかった人は、自分の無力さを認める代わりに、他者を責めることで心の均衡を保とうとする。」
「こんな社会が悪い」「親が間違ってた」「みんな冷たい」――
その叫びの底には、「本当は誰かに抱きしめてほしかった」という声なき声が潜んでいる。
5. 人間関係の構築不全──近づけない、でも離れたくない
加藤は、人間関係において**「距離感の不全」**という現象を指摘する。
愛の欠如を経験した人は、「他者との距離」をうまく測れない。近づきすぎれば不安に襲われ、離れれば孤独に震える。
それはまるで、光に向かって飛び込もうとしても、熱に焼かれて身を引く蛾のようである。
ある女性は、結婚して3年目に突然「夫の優しさが怖い」と感じるようになった。
彼女は言う。「本当に優しくされると、それを信じる自分が怖くなる。いつか裏切られるんじゃないかって。」
この心理の背景には、「愛されること」に慣れていないこと、つまり**「受け取る器」が育っていない状態**がある。
加藤はそれを、「愛され慣れていない者の孤独」と名づけている。
6. 愛の不在は“思考”では埋まらない
現代は知識の時代である。
しかし、どれだけ心理学を知っていても、どれだけ理屈で自分を納得させようとしても、愛されなかったという“体感”の欠如は、知性では補いきれない。
加藤は語る。「人間の深層は、論理ではなく、情緒で動いている。」
そして、その情緒の根にあるのが、「愛された記憶」なのである。
たとえ一度でも、「この人のそばにいていい」と思えた瞬間があるならば、人は何度でも立ち上がることができる。
その瞬間こそが、人生の回復点になる。
結び──愛の欠如に気づくことが、回復のはじまり
加藤諦三の思想において、「愛の不在に気づくこと」は、決して敗北ではない。
それはむしろ、人生を取り戻す最初の扉なのである。
「あなたが不安で仕方がないのは、愛されなかった過去の自分が、今も心の奥で泣いているからだ。」
その声を無視せず、そっと耳を傾けること。
それが、「自分を愛する」という最も困難で、最も大切な技術のはじまりである。
第4章:人生における『愛』の回
1. 愛は“もう一度始められる”
ある雨の朝、60歳の男性が精神科外来の待合室に現れた。
顔は強張り、目は伏せられたまま。彼は開口一番こう言った。
「私は、自分の人生を愛せなかった。」
彼の半生は“他人にとって良い人間であること”で埋め尽くされていた。会社では忠実な部下、家庭では“理想の父親”を演じてきたが、心には常に空洞があった。
定年を迎えた途端、自分を支えていた肩書きが剥がれ落ち、虚無感と共に「誰のために生きてきたのか」がわからなくなったという。
加藤諦三はこう言う。
「愛は“過去に与えられなかったから終わり”ではない。むしろ“気づくこと”から始まる、もう一つの人生である。」
彼の回復の道は、「自分を見つめ直す」ことから始まった。そして半年後、彼は静かにこう言った。
「あのときの私は、愛されたかったのに、ずっと演じていた。今はもう、泣いてもいいと思えるようになりました。」
2. 回復は“記憶”ではなく、“体験”から生まれる
加藤は「愛を理解するには、理屈ではなく経験が必要だ」と説く。
回復とは、過去の傷を分析することではない。
それは、“今この瞬間に他者とつながること”を、もう一度身体で感じることなのである。
ある女性の話がある。
彼女は幼少期から親に無視され、愛情を与えられなかった。恋人との関係も壊れてばかりで、「私は誰からも愛される資格がない」と思い込んでいた。
だが、あるとき、職場の同僚が彼女のために、そっとおにぎりを差し出してくれたという。
そのとき、胸の奥が不意にあたたかくなり、涙が止まらなかったと語る。
「あれはただのおにぎりじゃなかった。あれは、“あなたはここにいていい”というサインだった。」
この一瞬の“経験”が、彼女の心の扉を静かに開いた。
回復は、“わかる”ことからではなく、“感じる”ことから始まる。
愛の欠如を埋めるのは、言葉よりも沈黙のぬくもりなのだ。
3. セラピーという「共鳴の場」
加藤諦三の提唱する心理的回復の場は、しばしばセラピーや対話の中に見出される。
それは“治療”ではない。むしろ、“もう一人の自己との再会”である。
ある男性は長年、自分を憎んで生きていた。
彼はセラピストに向かって、少年期に親から「お前なんか生まれてこなければよかった」と言われた話を繰り返す。
ある日、彼が話し終えた後、セラピストはただ一言こう言った。
「それは、本当に悲しかったですね。」
その言葉が胸を打ち、彼は号泣した。
「誰かが、俺の悲しみを、悲しんでくれたのは初めてだった」と後に語った。
加藤は述べる。
「人間は、自分の気持ちを共有してもらったとき、はじめて“生きている”と感じられる。」
愛の回復とは、“理解される”ことではない。
「共に悲しんでもらう」という、心の共鳴にほかならない。
4. 小さな肯定が人を変える
愛の回復は、劇的な出来事によって起こるわけではない。
多くの場合、それは“さりげない肯定”の積み重ねである。
加藤はあるラジオ番組でこんな話を紹介した。
不登校だった少年が、近所のおばあさんに「最近顔見なかったねぇ、元気かい?」と声をかけられた。
それだけで、彼は翌日学校に行く決心をしたという。
このようなささやかな出来事は、本人にとっては「存在が歓迎されている」という大きな意味を持つ。
「私はここにいていい」と思える経験が、人の未来を決定づける。
5. 愛される“勇気”を持つこと
意外にも、多くの人は「愛されること」に怯えている。
それは、自分の脆さが露呈するのではないかという恐怖。
「こんな自分が受け入れられるわけがない」という自己否定。
だが、加藤は言う。
「愛を受け取ることは、勇気のいる行為である。」
それは、“防御”を解くこと、“素顔”を見せることだからだ。
けれど、その勇気をほんの少し持つだけで、人は人生を変えられる。
あるカウンセリングで、女性が「私なんかの話、聞いてもらってすみません」と言ったとき、セラピストは微笑んでこう答えた。
「あなたの話が聞きたくて、私はここにいます。」
その瞬間、彼女の中で何かが「溶けた」という。
6. “愛する”という回復の形
最後にもう一つ、重要な視点がある。
それは、「愛される」こと以上に、「愛する」ことが人を回復させるという事実だ。
加藤は語る。
「人は、誰かを大切に思うとき、自分の存在が確かになる。」
愛とは、受動的に与えられるものではなく、能動的に“差し出す”行為である。
そしてそのとき、人は“愛される資格がある”ことを、身体の深部で確信するのだ。
ある高齢男性は、孤独を癒すために保護猫を飼い始めた。
その猫が食事をし、眠る姿を眺めながら、「俺がいないとこの子は生きられない」とつぶやいた。
その瞬間、彼の人生に意味が生まれた。
誰かを愛すること。それは、自分の命に灯りを灯すことでもあるのだ。
結び──“愛され直す人生”は、誰にでも始められる
人生は、過去によって支配される必要はない。
加藤諦三が幾度となく伝えてきたのは、「今ここから、もう一度愛され直すことは可能だ」という静かな希望だ。
「あなたは、愛されなかった人ではない。
愛されることに、まだ気づいていない人なのだ。」
この言葉は、すべての孤独に灯る灯火である。
人生における愛の回復とは、劇的な奇跡ではない。
それは、誰かのまなざし、誰かの言葉、誰かの沈黙のぬくもりによって、そっと始まる“第二の誕生”なのだ。
第5章:愛と人間関係の再構築
1. 壊れた関係に残る“沈黙の傷”
彼は、彼女の前でほとんど何も話さなかった。
彼女は、その沈黙に毎晩泣いた。
それは、別に怒っているわけでも、嫌っているわけでもない。ただ、話すことがなかった。
けれど彼女は、こう感じていた。
「私はこの人にとって、存在していないのかもしれない。」
人間関係が壊れていくとき、それは言葉の暴力よりも、むしろ**“言葉が交わされないこと”**によって始まる。
沈黙は、ときに「関係の死」を意味する。
加藤諦三は言う。
「言葉は、愛を運ぶ舟である。沈黙は、その舟が岸にたどり着くのを妨げる波だ。」
人は、黙っていても理解されるほど強くはない。
人間関係を修復する第一歩は、**「もう一度話す勇気」**を持つことから始まる。
2. 依存から自立へ──「あなたがいないと私はだめ」は愛ではない
ある夫婦の話。
妻は、夫の帰りが遅いと電話をかけ続け、返信がなければ涙を流した。
夫は最初こそ心配していたが、やがてそれを「束縛」と感じ始めた。
彼女は言った。
「あなたがいないと、私には何も残らない。」
加藤諦三は、このような愛を「依存」と明確に区別する。
「愛とは、他者を必要としない“自立した個”が、互いに支え合う関係である。」
依存の愛は、相手を“所有”しようとする。
だが、本当の愛とは、「いなくても生きられるけど、いてくれたら嬉しい」という関係なのだ。
再構築のためにはまず、「私は私のままでいていい」と思える自己像が必要である。
それが、人間関係の“足場”となる。
3. 親子関係の修復──「わかってほしい」の前に
親子関係は、最も深く、最もこじれやすい関係である。
ある青年は、母との関係を断ち切っていた。
理由は「何もかもを決めつけられるから」。
しかし、ある日、母から手紙が届いた。
「あなたが何を思っていたのか、私はちゃんと聞いてこなかった。ごめんなさい。」
その手紙が、彼の心を動かした。
加藤は言う。
「人間関係が壊れるのは、“わかってもらえなかった”からではなく、“わかってもらおうとしなかった”から。」
多くの親は、「良かれと思って」子を導く。だがそこにはしばしば**「対話の不在」**がある。
再構築とは、「あなたはどう思っていたの?」という問いを持ち直すことだ。
それは、時間がかかる。けれど、それが親子にとって、もう一度“人間同士”として出会い直す道である。
4. 支配ではなく、共感のある関係へ
ある女性が、恋人のすべてをコントロールしたがる癖について相談に来た。
「彼が何をするか、何を考えているか、全部知っていないと不安になるんです」と。
加藤は、これを「支配の裏返しの恐怖」として捉える。
「支配する人は、実は自分が見捨てられるのを恐れている。」
相手を縛り、情報を握り、行動を監視する――それは愛ではなく、「見捨てられたくない」という叫びの表れだ。
再構築の鍵は、共感である。
「あなたがそう思うのは当然だね」と、**相手の内面を“理解しようとする姿勢”**が、壊れた信頼をつなぎ直す。
愛とは、支配しないこと。
相手の自由を喜べること。
そして、相手が“自分とは違う存在”であることを祝福することである。
5. 愛し方を学び直す──“沈黙と反応”の力
再構築において、最も大切な技術は「話し方」ではない。
それは、「反応の仕方」である。
加藤は言う。
「人は、話す内容よりも、“話したときの相手の表情”を記憶する。」
たとえば、誰かが弱さを打ち明けたとき、無意識に笑ってしまったり、話をそらしてしまったりすることがある。
それだけで、「この人には話せない」という信号が送られてしまう。
人間関係を再生するには、**“沈黙を恐れないこと”**が重要だ。
答えがなくてもいい。ただ、「その場にいる」という態度。
それだけで、関係は回復しはじめる。
6. 距離を縮めるのではなく、“境界線”を知る
意外にも、関係を修復するためには「距離を縮める」ことではなく、“健全な距離感”を見直すことが必要になる。
ある親子は、毎日のようにLINEを送り合っていた。
だが、どこかに緊張があった。
ある日、娘が「今日はいまいち返信したくなかった」と正直に告げると、母はこう言った。
「それでいいのよ。私も時々、ちょっとしんどい日があるの。」
この瞬間、二人の関係は大きく変わった。
**「つながりすぎないことで、むしろ信頼が深まる」**のだ。
加藤は言う。
「人間関係の成熟とは、境界線の尊重である。」
すべてを共有しなくていい。
わからないことがあってもいい。
その“あいまいさ”を許容できることが、愛の器を広げる。
結び──「もう一度、愛し直す」という選択
壊れた関係は、元には戻らない。
だが、それは悪いことではない。
むしろ、一度壊れたことで、もっと深い関係に生まれ変わることができる。
加藤諦三が繰り返し伝えているのは、
「人間関係は、“修復”ではなく、“再創造”である。」
一度、沈黙や傷や誤解に飲み込まれてしまった関係も、
ほんの小さな勇気――**「話してみる」「待ってみる」「笑いかけてみる」**で、静かに息を吹き返す。
そしてそのとき、私たちは知る。
愛とは、完璧な理解ではなく、諦めずに向き合い続ける“姿勢”なのだと。