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「愛しすぎた私が壊れた日」〜アドラー心理学から読む“要求しすぎた不幸”

2025.06.15

ショパン・マリアージュ

第1章:はじめに—愛と幸福の逆説



「私はこんなにあなたを愛しているのに、なぜ報われないの?」
恋愛や結婚において、この問いは数えきれないほど繰り返されてきた。だがアドラー心理学は、この問いそのものに問題があることを私たちに教えてくれる。なぜなら、その裏にあるのは「私はこれだけ与えているのだから、あなたも同じだけ返して」という、条件付きの愛だからだ。
心理学者Eva Illouzは、『Why Love Hurts』の中で、ロマンティックな愛がいかにして社会構造や個人心理の歪みによって「自作自演の不幸(self-inflicted misery)」に変わるのかを描いている。アドラーもまた、愛における「過剰な期待」は、しばしば不満と怒りの源になると考えた。
つまり、「要求しすぎた不幸」は、単に“相手が応えてくれなかった”という話ではない。むしろ、こちらが「こうであってほしい」という理想を押し付け、叶わなかったことへの怒りや失望、自己犠牲の演出によって生まれる“自作のドラマ”なのだ。

第2章:アドラー心理学と恋愛:愛されたい願望の正体
恋愛における最も普遍的な願いのひとつ、それは「愛されたい」という欲求である。だがアドラー心理学の視点に立つと、この単純に見える欲望が、実は非常に複雑で、時に“自分を不幸にする装置”として機能していることが見えてくる。

「愛されたい」は受動的な姿勢
アルフレッド・アドラーは、人間の根源的な欲求として“所属感”を重視した。人は「共同体の一部である」と感じることで、安心し、健全に生きられる。しかし、「愛されたい」という願望は、その所属感を他者からの承認に依存しようとする傾向がある。

この姿勢の問題点は、人生の主導権を“他人に委ねる”ことにある。愛されなければ満たされない、価値を感じられないという状態は、極めて受動的であり、アドラーが強調した「自己決定性」とは逆行する。
恋愛初期においては、この「愛されたい」欲求は時にロマンティックに装われ、好意を引き出す原動力となる。しかし、関係が深まるにつれ、「愛されていないかもしれない」という不安が強まると、それは猜疑心や要求のエスカレート、過干渉といった破壊的な行動へと変容していく。

ケーススタディ:承認を求めすぎた彼女
35歳の女性・理恵(仮名)は、交際相手が出張中に返事が遅れるたびに「愛されていないのでは」と不安に駆られた。彼女は毎日数十通のメッセージを送り、返事がなければ怒りと悲しみをぶつけた。彼は次第に距離を置くようになり、ついには関係が破綻する。

理恵の行動は一見“愛されたい”という素直な欲求のように見える。しかしその根底には、「私は価値のない人間かもしれない」という深い劣等感があった。アドラーはこうした劣等感が「過剰補償(overcompensation)」を生むと説いた。理恵の場合、過剰な愛情確認要求という形でそれが現れていた。
このような関係において、問題は相手が「愛しているかどうか」ではない。問題は「私は愛されなければならない」という、自分自身への条件付けられた価値観である。

「与える愛」へと転換する勇気
アドラー心理学が示す処方は、「与える愛」への転換である。つまり、「愛されること」よりも「愛すること」に価値を見出す姿勢だ。

愛するとは、他者に関心を持ち、相手の課題に踏み込まず、自分の人生を主体的に生きることでもある。これはHissa et al. (2020)が示したように、がん患者のような厳しい状況にあっても、自己の価値と他者とのつながりの中で希望を見出す例にも共通する。
つまり、真の意味での“愛されたい”という願望は、「私を愛してほしい」から「私が愛することに意味がある」へと成熟するプロセスの中で、ようやく昇華されるのだ。

第3章:「あなたがすべて」症候群と自作自演の苦悩
「彼がいないと生きていけない」「彼女がいないと自分じゃない」——このような言葉は、一見するとロマンティックに聞こえるかもしれない。しかしアドラー心理学は、その言葉の裏にある“目的”を冷静に見つめる。

恋愛における「あなたがすべて」という考え方は、実は自己中心的であり、自己喪失的である。そのような依存的愛情は、他者の存在を“自己の価値証明”として利用する態度に近い。そしてこの態度が、最終的には「不幸な自分」というドラマの脚本を自ら書き、自ら演じる“自作自演の苦悩”につながっていく。

愛という名の自己放棄
沙織(仮名・29歳)は、交際中の恋人に自分の生活のすべてを合わせていた。彼の仕事が終わるまで何時間でも待ち、彼の趣味に付き合い、自分の希望はすべて後回しにした。彼が「別れよう」と言ったとき、彼女は泣きながらこう言った。

「私は、あなたのためにすべてを捧げてきたのに。」
このセリフに込められた感情は、「失望」ではなく「怒り」に近い。彼女は“尽くした分だけ報われる”という“等価交換の愛”を信じていた。しかし、愛は本質的に与えるものであり、見返りを求めるものではない。ここに、アドラー心理学が警鐘を鳴らす理由がある。

被害者としての優越性
アドラーは、人が不幸を「演じる」ことによって、他者の注目や同情、あるいは優越性を得ようとする心理を指摘した。これは「劣等感の補償」であり、外的状況に自分を委ねることで責任を回避しつつも、精神的に優位に立とうとする戦略である。

沙織も、「捧げたのに報われない自分」「傷ついた自分」という役を演じることで、恋人への非難と自己価値の回復を同時に果たそうとした。これはまさにJR Bitterが指摘する“神経症的ライフスタイル”の典型であり、「傷ついている自分」を使って他人を操作しようとする心の働きである。

「私は私である」という決意
「あなたがすべて」という生き方は、一見すると情熱的だが、実のところは“自己放棄”である。アドラー心理学は、人が本当の意味で他者とつながるためには、「まず自己の確立」が必要だと説く。

沙織は別れたあと、しばらくは「何をしたらいいのか分からない」と混乱していたが、やがて料理教室を始め、資格取得の勉強を始めた。「彼のため」ではなく「自分の人生を生きる」という視点に切り替えたことで、初めて「愛されたい」ではなく「自分を生きたい」と願うようになった。
アドラー心理学は、人の幸不幸を“他人が与えるもの”ではなく、“自分が選ぶもの”と捉える。そしてその選択には、自分の人生を他者に預けるか、それとも自らの足で立つかという、根本的な決断がある。
第4章:ケース①──理想を押し付けた結婚生活の崩壊
「こんなはずじゃなかった」——この言葉は、結婚生活が破綻に向かうとき、多くの人の口から漏れる。だがその“はず”とは、いったい誰が決めたものなのだろうか。

アドラー心理学では、人間関係のトラブルの多くは「課題の分離ができていない」こと、そして「他者に自分の理想を押し付けること」から始まるとされる。恋愛や結婚において、それは「理想の夫・妻像」を一方的に期待し、相手がそれを果たさないときに怒りや落胆を感じる――という形で現れる。

「理想の夫婦」はどこから来たのか
祐子(仮名・36歳)は、結婚当初から夫に「理想の夫像」を抱いていた。定時に帰宅し、夕食を共にし、週末は家族で過ごす。仕事に理解を示しつつも、家事育児にも積極的。言わば“家族思いで感情表現が上手な夫”が、祐子の中の「当たり前」だった。

しかし、夫・康太は外資系企業で夜遅くまで働き、休日は疲れて眠ることも多かった。彼女は次第に「私より仕事を選ぶのね」と感じ、「どうして気遣ってくれないの?」「普通、こんな時はこうするでしょ?」と詰め寄るようになった。

「普通」の裏にある支配欲
アドラーは、人が「普通はこうすべき」という価値観を他者に適用するとき、それはしばしば“隠れた支配欲”の表れであると指摘する。つまり、自分の価値観に従ってくれない相手を非難することで、「私は正しい」「あなたは間違っている」という構図を作り上げ、精神的優位に立とうとするのである。

祐子は無意識にこの罠にはまっていた。彼女の理想は、実は「私が安心するための脚本」であり、夫の個性や現実の事情は、その中に“邪魔な要素”としてしか認識されなかった。
アドラー心理学における「対等な関係」とは
アドラー心理学では、真に健全なパートナーシップは「対等な関係」であり、そこには相互の尊敬と違いを認める態度が求められる。相手は自分の理想を叶えるための“道具”ではなく、独立した人格であり、それぞれの課題と選択を尊重すべき存在である。
この視点に気づいたのは、祐子がカウンセリングを通して、「夫を変えようとするより、まず自分の“期待”に向き合おう」と決意したときだった。彼女は、自分の“夫婦像”が、実は育った家庭環境での母親の願望をそのまま受け継いだものだったことに気づく。つまり、“私の理想”は“私のものですらなかった”のだ。

結婚は「他人と作る、未完成の共同体」
アドラーは、結婚を「共同体の中で築く協力的関係」と見なしていた。完璧な夫婦像を求めるのではなく、不完全な二人が、相手の違いや弱さを受け入れ、共に生きる姿勢が本質である。

祐子と康太は一度は別居という選択をしたが、互いの“違い”を認め直すことから再出発を始めた。祐子は「理想を手放したら、ようやく夫と向き合えた」と語る。理想が壊れたとき、本当の関係がようやく始まったのだった。

第5章:ケース②──愛情不足の裏にある“承認欲求”
「愛された記憶がないんです」——これは、心理カウンセリングの現場でしばしば聞かれる言葉だ。だがアドラー心理学の視点に立つと、その“愛情不足”の感覚は、しばしば「承認欲求」というレンズを通して肥大化している場合がある。

「足りない」の正体
祐一(仮名・33歳)は、婚約者との関係がうまくいかずカウンセリングに訪れた。「彼女はもっと愛してくれると思っていた。でも、俺の気持ちには応えてくれない」と彼は言った。だが、会話を重ねるうちに見えてきたのは、祐一が「愛されることで自分の存在価値を証明しようとしていた」という構図だった。

祐一は幼少期、父からは厳しい躾を受け、母からは過干渉気味の愛情を注がれて育った。褒められることは少なく、「もっと頑張れば認められる」というメッセージの中で育った彼は、「他人からの評価=自己価値」という等式を内面化していた。
このようにして育まれた承認欲求は、大人になってから恋愛関係においても、「もっと愛してほしい」「ちゃんと見てほしい」といった形で顔を出す。しかしそれは、相手への要求というよりも、実は「自分自身の空白を埋めてほしい」という切なる願いなのだ。

アドラー心理学の視点:「承認を求めること」の危うさ
アドラーは、「他人の期待に応えることで自分を認めようとする姿勢」を明確に否定していた。なぜなら、そのような在り方は常に“他者の評価”に振り回されることになるからだ。

つまり、祐一が抱えていたのは「彼女が愛してくれない」という問題ではなく、「愛されなければならない」と思い込むことで、自らを縛っていた心の鎖だったのである。

自己受容というスタート地点
祐一は、自分の期待が相手を苦しめていたことを理解し始めた。そして、初めて「自分が何をしたいのか」「何を感じているのか」を言葉にすることに挑戦した。アドラー心理学が重視する「自己決定性(self-determination)」とは、他人に認められるための行動ではなく、自分の意思に基づいて選び取る生き方である。

彼はこう言った。「彼女に愛してほしいと思う前に、俺は俺のことを認めたことがなかったんだな。」
その気づきは、恋愛関係の修復だけでなく、彼自身の人生の出発点にもなった。
「認められたい」から「自分を認める」へ
承認欲求は、人間にとって自然な感情である。しかし、それに囚われてしまうと、他者に対して過度な期待や依存、そして失望を繰り返す関係を生み出す。

アドラー心理学は、「他人にどう思われるか」ではなく、「自分がどうありたいか」を軸に生きることを勧める。祐一が“愛されたい人”から“愛する人”へと変わっていったプロセスは、「足りなかった愛情」を外から補うのではなく、自分の中に見出す旅路だったのだ。

第6章:ケース③──共依存関係と“傷つけ合う幸福”
「私がいないと、あの人はダメになる」

「彼がいないと、私は生きていけない」
このような言葉を耳にするたび、アドラー心理学の核心が問いかけてくる。「本当にその関係は“幸福”なのか?」

“愛”とすり替わる「依存」の心理
アドラー心理学では、愛とは「相互に尊敬と信頼をもって共に生きる協力関係」である。しかし現実には、愛と呼ばれる関係の中に、「依存」「支配」「自己犠牲」といった歪んだ感情が混じり合っていることが少なくない。

由紀(仮名・38歳)は、10年以上にわたり夫・健一(仮名)との激しい喧嘩を繰り返しながらも、離婚することなく共に暮らしていた。彼は仕事でのストレスを酒と暴言で発散し、彼女はそれを「私がいないと彼は壊れてしまうから」と耐え続けていた。
だが、そこには「支える私こそが彼に必要な存在」という優越感、そして「彼に愛されるには尽くさなければならない」という思い込みがあった。

支配と被害の“共演”
共依存関係において、双方は無意識のうちに「被害者」と「加害者」の役割を演じ合う。アドラー心理学では、これは「劣等感の補償」と捉えられる。つまり、「私は苦しんでいる=だから正しい」という構図を通じて、精神的な優越性を確保しているのだ。

由紀の「私はあんなに尽くしているのに、どうして彼は変わらないの?」という言葉は、その象徴である。彼女は無意識のうちに、苦しむことによって“愛されるにふさわしい人間”を演じていた。
これは、Silvestro (2018)が述べるように、「愛することと自分を犠牲にすることの混同」によって、双方の未成熟さを補い合うような、持続的だが破壊的な関係を作り出してしまう。

「勇気のない愛」が生む負の連鎖
アドラーは「愛には勇気が必要だ」と説いた。相手を信じ、対等な関係を築き、自分の課題と他人の課題を分けて生きること——それは、容易ではないが、人間関係を成熟させる唯一の道である。

由紀が変わり始めたのは、彼の課題(酒、暴言)を「自分が引き受けるべきことではない」と認識したときだった。彼女は「支えること」を手放し、「離れることも愛のかたち」と受け止める勇気を持った。
別居という選択を経て、彼は初めて自身の問題に直面し、自発的にカウンセリングを始めた。由紀もまた、自己犠牲ではなく「対等な愛」を探し始めた。二人は依存から自立へと舵を切ったのである。

傷つけ合う“愛”から、癒し合う“関係”へ
共依存関係は、「あなたが必要」「あなたがいないと」という言葉で美化される。しかしその実態は、「私は価値がない」「私は一人では不安だ」という劣等感のぶつかり合いに過ぎない。

アドラー心理学は、こうした関係を断ち切る第一歩として「課題の分離」と「勇気づけ」を実践することを勧める。相手の人生を引き受けるのではなく、相手の可能性を信じる。そして、自分の人生は自分で引き受ける。
それこそが、真に成熟した愛のかたちであり、幸福とは「依存されること」でも「支配すること」でもない——「共に自立しながら、支え合える関係」であるということに、私たちは気づいていくのだ。

第7章:ケース③──共依存関係と“傷つけ合う幸福”
「私がいないと、あの人はダメになる」

「彼がいないと、私は壊れてしまう」
このような言葉に込められた愛情は、しばしば“美徳”のように語られる。しかし、アドラー心理学はこうした関係を“共依存”と呼び、その背後にある「不健全な目的」を鋭く指摘する。
共依存関係とは、一見すると支え合いのようで、実際はお互いの未成熟な部分に依存しあい、傷つけ合いながら共倒れしていく構造である。

支え合いの仮面を被った“支配”
真理子(仮名・41歳)は、アルコール依存症の夫・一夫との生活を15年続けていた。彼女は彼の飲酒を咎め、倒れれば病院に運び、暴言を吐かれても「私がいないともっと酷いことになる」と思い、離れられなかった。

だが、彼女の行動は本当に“助け”だったのだろうか?
アドラー心理学の視点では、真理子の態度には「夫の人生を私がコントロールしている」という無意識の優越感が潜んでいる。つまり、彼を“弱者”として位置づけることで、「私は価値のある存在だ」と感じようとしていたのだ。
これはSilvestro (2018)が述べた「自己犠牲型支配」の一形態であり、「尽くすことによって支配しようとする欲求」が、互いの不幸を強化していく構図である。
アドラー心理学における「課題の分離」と勇気づけ
アドラーは、「他者の課題に介入することは、相手の自立を奪うことだ」と述べている。真理子がすべきだったのは、「彼の飲酒は彼の課題であり、自分はそれに巻き込まれない」という立ち位置を明確に持つことだった。

しかし、「私が支えないと彼は壊れる」と信じていた真理子にとって、その“手放す”という行為は恐怖だった。なぜなら、支えを手放すことは、「私は彼に必要とされないかもしれない」という自己価値の揺らぎと直面することになるからだ。
カウンセリングを通して真理子が気づいたのは、夫のアルコール依存以上に、自分自身の“承認されたい欲求”や“必要とされたい恐れ”が、共依存を形成していたという事実だった。

傷つけ合う幸福から、別々の健康へ
「彼の面倒を見ることで、私は必要とされる」——これは愛ではなく、自己価値の依存である。真理子はようやく別居を決断し、「私が壊れる前に、私の人生を生きよう」と決めた。

夫は初めのうち混乱したが、やがて自ら治療に向き合うようになった。ふたりの距離は、共倒れの構図から、それぞれが自立するきっかけへと変わった。
共依存関係は、「愛」という名を借りて、お互いを不自由に縛る関係である。アドラー心理学は、その結びつきを“勇気づけ”によって断ち切り、「相手を信じて任せる勇気」を教えてくれる。
真の愛とは、「相手が倒れても、自分は自分で在り続けること」であり、同時に「相手を信じて、その人生を相手に委ねること」である。

第8章:なぜ人は「不幸になる自由」を選ぶのか
「どうしてあの人は、いつも問題を引き寄せるような生き方ばかり選ぶのだろう?」

「わざと不幸になるような決断をしているとしか思えない」
人間関係やカウンセリングの現場で、こうした疑問に出会うことは少なくない。しかしアドラー心理学は、この問いに対して鋭く、かつ逆説的な答えを提示する——「不幸もまた、自分で選んでいる」と。
この言葉は、しばしば誤解を招く。「人は誰も好きで不幸になっているわけじゃない」と反発されることもある。だがアドラーは、人間の行動には常に“目的”があり、その目的に照らして最適な(と本人が思い込んでいる)行動を選び取っていると考えた。
つまり、「不幸になること」も、何らかの心理的な利益をもたらす“手段”なのだ。

不幸は責任回避の盾になる
たとえば、「私には無理」「どうせうまくいかない」と繰り返す人は、失敗を避けることができる。挑戦しなければ、結果に責任を持たずに済む。これは、JR Bitterが述べるように、神経症的ライフスタイルの一部であり、「行動しないことによって、自分を守る」パターンである。

こうした人にとって、「自分は不幸だ」という役割は、他人に責任を押し付けたり、同情や援助を引き出したりする手段になる。つまり、不幸には“報酬”があるのである。

「不幸でいるほうが楽」という心理
もう一つの大きな要素は、「不幸なままでいることのほうが、変化よりも楽」だという感覚である。

変わることは、苦しい。自分の過去や傷と向き合い、新しい人間関係を築き、環境を変えるには、大きなエネルギーが必要だ。現状が苦しくても、それに慣れてしまった人にとっては、「安定した不幸」のほうが、「未知の幸福」よりも安心なのだ。
アドラー心理学は、このような人の状態を「勇気の欠如」として捉える。勇気とは、失敗するかもしれないけれども前に進もうとする力、つまり“人生を引き受ける覚悟”である。

依存されたくて「不幸を演じる」人たち
また、共依存的な関係においては、「不幸でいること」が相手の関心や介入を引き出す手段として機能する。病弱な妻、いつも職場でトラブルを抱える夫、感情的に不安定な恋人。こうした人物は、無意識のうちに「不幸である自分」を演じることで、相手からの愛情や支援を引き寄せようとする。

ここにも「選ばれた不幸」がある。それは他者の注目や介入を維持するための“演出”なのだ。

不幸を手放すには「勇気」が必要
アドラー心理学は、こうした“選ばれた不幸”から抜け出すためには、「今、自分がどのような目的で不幸を維持しているか」を明確に認識する必要があると説く。目的が明確になれば、「その目的を別の方法で果たす」道を選ぶことができる。

不幸は時に、人に優越感を与え、同情を呼び、責任を免れる口実となる。しかしそれは、同時に人生の主体性を他人に明け渡す生き方でもある。
幸福になるためには、自分の選択と責任を引き受ける勇気が必要だ。アドラーの言葉を借りれば、「幸福とは勇気の産物」であり、「不幸とは、勇気の不足による選択」なのかもしれない。

第9章:共同体感覚の回復と“勇気づけ”の実践
「自分だけがつらい」「誰も自分を理解してくれない」

このような感情に囚われているとき、人はしばしば孤立している。心の扉は閉ざされ、外の世界は冷たく見える。だが、アドラー心理学はこうした閉塞感の解消には、「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の回復が不可欠だと説く。

「共同体感覚」とは何か
アドラーが強調した「共同体感覚」とは、自分が社会や他者の一部であり、他人もまた自分とつながっている存在であるという感覚である。これがあるとき、人は「他人を敵」としてではなく、「共に生きる仲間」として見ることができる。

共同体感覚が欠如すると、人は被害者意識や自己中心性に陥る。他者への信頼が失われ、「どうせ誰も助けてくれない」と世界を敵視し始める。ここから生まれるのが“要求しすぎた不幸”である。

回復の第一歩は「他者貢献」
共同体感覚は、ただ感じるものではなく、能動的に「貢献することで育まれる」とアドラーは語った。つまり、他人の役に立とうとする行動が、自分を“共同体の一員”と感じさせてくれるのだ。

たとえば、夫婦関係が破綻しかけていた明美(仮名・39歳)は、「夫に何をしてもらうか」ばかりを考えていた。しかし、カウンセリングで「自分が夫に何を与えられるか」を考えるように促されたとき、彼女の視点が変わった。「ありがとう」と声をかける、小さな気遣いをする——たったそれだけで、夫の態度も徐々に変わり、関係は回復の兆しを見せた。
これは、TJ Sweeneyも述べるように、アドラー的実践の核心にある「貢献による自己肯定感の回復」の好例である。

勇気づけ:人の心を動かす最小の技術
共同体感覚を育てるための手段として、アドラー心理学が提唱するもう一つの重要な概念が「勇気づけ(Encouragement)」である。

勇気づけとは、「あなたには価値がある」「あなたにはできる」というメッセージを言葉と態度で伝えることである。これは、「叱る」や「褒める」とは異なる。叱責や称賛は行動に対する評価であるが、勇気づけは存在そのものへの承認である。
教師である浩司(仮名・45歳)は、問題行動を繰り返す生徒に「なぜそんなことをするんだ」と叱り続けていた。しかしアドラー心理学を学び、「君がここにいるだけでクラスは変わるんだよ」と声をかけるようにした。すると、生徒の行動は次第に穏やかになり、信頼関係が築かれていった。
勇気づけとは、小さな言葉と態度で「私はあなたを信じている」という意思を示すことである。これは、相手を変える力ではなく、相手が自分自身を信じられるようになる“土壌”を提供する行為だ。

自分にも「勇気づけ」を
忘れてはならないのは、「勇気づけ」は自分自身にも行えるという点である。失敗したときに「まだやれる」と声をかける、落ち込んだときに「それでも一歩進んだ」と認める。これは「自己勇気づけ」であり、自分の人生の舵を握り直す大切な技術である。

他者を勇気づけるには、まず自分を勇気づけること。共同体感覚とは、自分と他人の「つながり」を思い出すこと。そして、不完全な自分を抱えながらも誰かと手を取り合って生きる「共同体の一員」として、もう一度立ち上がることである。

第10章:幸福とは「与える愛」である

「私は、愛されたい」

この願いに、誰もが共感するだろう。愛されることは、存在を肯定される感覚をもたらす。だが、アドラー心理学は、この「愛されたい」という欲望を乗り越え、「愛すること」こそが真の幸福につながると教えてくれる。

与える愛と、奪う愛

恋愛における多くの苦しみは、「相手に何をしてもらえるか」という“受け取る側の発想”に基づいている。もっと優しくしてほしい、もっと連絡してほしい、もっと認めてほしい。こうした要求が満たされないとき、人は「私は愛されていない」と感じてしまう。

しかしアドラーは、この“受け取る愛”は極めて不安定で、持続的な幸福をもたらさないと指摘する。なぜなら、それは他人の反応に依存しているからだ。相手が変われば、自分の幸福も揺らいでしまう。

対して、「与える愛」は主体的だ。相手の気持ちを尊重し、自分の気持ちも偽らず、互いの違いを受け入れながら関係を築く。ここには支配も期待もない。ただ「私は、あなたの幸せを願う」という意思があるだけだ。

「愛されたい」から「愛する」へ

アドラー心理学において、愛とは「課題の分離を前提とした協力関係」であり、自立した二人が相互に貢献し合う関係である。つまり、自分が満たされていないからといって、相手にそれを埋めてもらおうとするのは「依存」であり、「愛」ではない。

愛するとは、相手の人生に干渉することではなく、尊重し、見守ること。必要なときに手を差し伸べ、でも相手の課題には踏み込まない。自分の幸せと相手の幸せが別々にあって、それでも「共にある」ことを選び続ける。それが成熟した愛である。

愛することは、勇気を要する

「与える愛」は、決して簡単ではない。拒絶されるかもしれない、報われないかもしれない。それでも、愛することをやめない——その姿勢には、大きな“勇気”がいる。

アドラーは、「勇気とは、たとえうまくいかなくても、自分の信じた生き方を貫く力」であると語った。だからこそ、愛することもまた、勇気の行為である。

恋愛や結婚において、相手に完璧を求めず、自分も完璧ではないことを認めたうえで、それでも共に歩むこと。それは「相手の人生を豊かにする」という目的を持って自分の行動を選ぶことだ。

幸福とは「誰かの幸せに貢献できた」と思える感覚

アドラー心理学の究極の目標は、「共同体感覚」の育成である。これは単に「他人とうまくやる」ということではなく、「自分が他者に何かを与えられる存在である」と実感することで、自分自身の存在価値を深く感じるプロセスである。

祐一が「彼女に愛されたい」から「自分がどう愛するか」を考えるようになったとき、彼の人生は変わり始めた。真理子が「夫を支えること」から「自分を信じて歩くこと」へと視点を変えたとき、彼女はようやく“自由な愛”を知った。

彼らのように、誰かの人生にそっと寄り添いながらも、自分の人生をしっかりと歩くこと。それが、アドラー心理学が示す「幸福な愛」のかたちであり、真に成熟した人間関係の基盤である。

おわりに

「不幸にならない生き方」は、「幸せになろうとしない生き方」かもしれない。

自分の価値を他者に委ねず、自ら選んで、自ら愛する。

それは簡単な道ではないが、誰にでも可能な道だ。

そしてその道の先には、きっとこう言える日がくるだろう——

「私の人生は、私が愛してきたものでできている」と。

ショパン・マリアージュ

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