婚活でつまづいたら・・・・
寿Concierge ことこん(東京都)
2025.05.11
ショパン・マリアージュ
日本社会において、「他人からどう見られているか」は、個人の幸福感に大きな影響を与える。就職、結婚、出産、マイホームの購入──そうした“人生の成功テンプレート”に従っているかどうかが、幸福の有無を判断する一つの基準とされがちである。
加藤諦三はこの現象を、「演技された幸福」と呼ぶ。つまり、他者の期待に応えることが幸福の条件になってしまった現代では、人々は本音ではなく「望まれている自分」を演じることで、安心しようとする。その裏には、「自分自身のままでは価値がないのではないか」という強い不安と、承認への飢えがある。幸福は感じるものではなく、「見せるもの」になってしまったのだ。
たとえば、家庭を築き、経済的にも安定し、周囲からは「理想的な主婦」として称賛されていたある女性のケースを考えてみよう。彼女は常に丁寧な料理を作り、子どもの教育にも熱心で、夫とも円満に見えた。SNSには笑顔の家族写真が並び、コメント欄には「理想の家族」「憧れます」という言葉が並ぶ。
しかし、彼女の心は決して安らいでいなかった。毎朝起きると、動悸がし、何もしていないのに涙が出る。夫との会話は事務連絡に近く、子どもへの愛情は“義務”として与えられるものになっていた。自分の感情が分からなくなり、「本当に私はこれでいいのだろうか」と、自問を繰り返す。
このように、外から見れば幸福でも、内面が不安や抑圧に満ちていることは少なくない。加藤はこれを「条件付きの存在価値を生きる人間」の典型例として提示する。彼女が演じていたのは「妻」「母」「成功した女性」というロール(役割)であり、「自分自身」ではなかったのだ。
同様の例は、企業経営者や官僚、芸能人といった社会的に成功しているように見える人々の中にも見られる。彼らは豪邸に住み、高級車に乗り、多くの人々から羨望を集める存在である。しかし、加藤はこう指摘する。「社会的な地位が上がれば上がるほど、逆に自分を偽らなければならないと感じる人がいる」と。
かつて相談番組で紹介されたケースでは、40代の会社経営者が「生きる意味が分からない」と吐露した。周囲から見れば、成功者の典型であった彼は、誰もが羨むような生活を送っていた。しかし、彼の中では「すべては演技だった」という感覚が常につきまとっていた。誰にも弱みを見せられず、どこまで行っても「本当の自分」は受け入れてもらえないという諦めがあったのだ。
加藤はこのようなケースに対し、「幼児体験において、ありのままの自分が否定された人間は、他人の期待に応えることでしか存在意義を見出せなくなる」と分析する。つまり、彼らにとって“見せかけの幸福”とは、生き延びるための防衛機制だったのだ。
見せかけの幸福には中毒性がある。承認を得ることで一時的に満たされる感覚は、麻薬のように次々と新しい刺激を求めさせる。SNSの「いいね」や賞賛の言葉、昇進、結婚、出産──そのすべてが、他者からの「お墨付き」を得るための道具となる。
しかし、そうした外的な要素に依存している限り、心の安定は決して得られない。なぜなら、幸福が「外側から与えられるもの」だと思い込んでいる限り、他人の評価や期待が変化するたびに、自己価値も揺れ動くからだ。加藤は、「自己の内側に根ざした幸福こそ、本当の幸福である」と断言している。
自己理解や自己受容を経ないまま、外部の評価にばかり注意を向けていると、次第に自分の感情が麻痺していく。何が嬉しくて、何が悲しいのかも分からなくなる。そして最終的には「何のために生きているのか分からない」という虚無に突き当たる。
加藤は、見せかけの幸福を生きる人々を「他人の人生を生きている」と表現する。これは単なる比喩ではなく、心理学的に極めて正確な観察である。たとえば、親に褒められるためだけに難関大学に進学した青年は、その後の人生においても「他人の評価」が最大の価値基準となる。恋人、職業、趣味すらも、すべて「どう思われるか」で選ぶ。
このような人生では、自己実現は決して達成されない。他人の期待を生きる人生は、どれだけ成功しても「達成感」にはつながらない。なぜなら、それは“他人が望んだ成果”であって、自分が心から望んだものではないからだ。
では、なぜ人々はこれほどまでに見せかけの幸福にしがみつくのか。それは、「演技をやめること」に対する強い恐怖があるからだ。仮面を外せば、自分が無価値な存在として見捨てられるのではないかという不安。それが、人々を“幸福の演技”に閉じ込めてしまう。
加藤は、「愛されるために自分を偽っている限り、決して本当の愛は得られない」と警告する。なぜなら、本当の愛とは“本当の自分”をさらけ出したときにしか始まらないからだ。つまり、見せかけの幸福を手放すことは、一時的に痛みを伴うが、それによって初めて「愛すること」「愛されること」が可能になる。
見せかけの幸福とは、他人の期待に応えることで得られる一時的な安堵である。しかし、それは根源的な安心や愛ではない。むしろ、自分自身からの逃避であり、最終的には自分の心を空虚にするだけである。
加藤諦三の言葉を借りれば、「真の幸福とは、他人の目にどう映るかではなく、自分自身がどう感じているか」である。そして、自分の感情に正直であること、自分を偽らないことこそが、真に幸福な人生の第一歩なのである。
「私は愛されたい」「誰かに必要とされたい」──この願いを否定する人はいないだろう。しかし、加藤諦三ははっきりと述べる。「愛されたいという欲求が強すぎる人は、他人を愛することができない」と。これは一見矛盾するように見えるが、心理学的には非常に示唆的である。
愛されたいという欲求は、多くの場合、満たされなかった過去の体験、特に幼少期の愛着不全から来ている。無条件で愛された経験の乏しい人は、自分が価値ある存在であると信じることができず、その不足を“他者からの愛”で補おうとする。しかしそのとき、相手は「自分を満たすための道具」と化し、関係は共依存的なものになってしまう。
一方で、愛するという行為は“与える行為”であり、相手の幸せや成長を願い、自分の期待や要求を手放す姿勢が求められる。つまり、愛されたいという欲望が強いと、愛することの無私性と対立するのである。
現代社会では、愛という言葉が過度にロマンチックに語られている。熱烈な感情、情熱的な行動、運命的な出会い──そうした要素が“愛の証”とされることが多い。しかし、加藤は明確に主張する。「愛とは感情ではなく、意志である」と。
つまり、真に人を愛するとは、「相手を理解したい」「相手を大切にしたい」と日々意志的に努め続けることを意味する。怒りを感じるときも、落胆するときも、「それでもなお相手に手を差し伸べること」が、愛するという行為の核心なのである。
この「愛する意志」には、自己犠牲や自己否定とは異なる“成熟した自己”が必要だ。相手に期待しすぎず、自分の欲求にとらわれず、相手の存在そのものを尊重できる余裕。つまり、「自分に余裕があるからこそ、相手を愛せる」のである。
加藤が繰り返し述べているように、「愛する力」とは、精神的な自立によってのみ育まれる。依存的な人間関係の中では、本当の意味で相手を愛することはできない。なぜなら、依存は“自分を支えてくれる相手”への執着であり、相手のために何かをしたいという自由意志ではないからだ。
たとえば、ある女性が長年、病気の母親を介護していた。周囲からは「よく頑張っている」と賞賛されていたが、本人は「私は一度も母を愛したことがない」と語った。介護は義務であり、罪悪感を避けるための行動だったという。これは、愛するふりをした“自己保全のための行動”であり、情熱から生まれた行動ではない。
一方で、別の事例では、ある男性が高齢の父親と再会したことで、自分の中にあるわだかまりが溶け、自然と父を思いやる気持ちが湧いたという。彼はこう語った。「ああ、これが愛するってことなのか。見返りなんていらない。ただそばにいてほしいと思ったんです」と。ここには、責任や義務ではなく、「内発的な愛」が存在していた。
加藤は「愛するとは、相手のことを理解しようとする行為である」と定義する。恋愛や友情の中で起こるすれ違いや破綻の多くは、「自分の期待と違う行動をした相手に失望する」ことで生じる。しかし、真に愛するとは、その失望や怒りを受け止めたうえで、「なぜ相手はそうしたのか?」を理解しようと努めることなのである。
つまり、愛とは「相手の立場に立ち、相手の心に寄り添おうとする努力」の連続であり、それは時に忍耐や葛藤を伴う。それでも、その理解の積み重ねこそが信頼関係を深め、持続可能な愛を育む土台となる。
たとえば、育児において、子どもが反抗期に入り、親の言うことを聞かなくなったとき、多くの親は「愛が通じなくなった」と感じてしまう。しかし、加藤はこうした場面こそ、親の「愛する力」が試されると説く。子どもが何を不安に思っているのか、なぜ距離を取ろうとするのか──その背景に目を向けることが、愛するという行為の本質なのだ。
もう一つ重要なのは、愛とは「所有」ではないという点である。加藤は、「愛するとは、相手を自分のものにしようとすることではなく、相手の自由を認め、信頼することだ」と強調する。
恋人が自分以外の人と会っていることに嫉妬したり、パートナーが自分の思い通りに動かないことに怒りを覚えたりするのは、「愛しているから」ではない。それはむしろ、相手を“自分の所有物”とみなしている証拠である。こうした関係は、愛ではなく支配、あるいは依存に近い。
たとえば、妻がキャリアを築こうとしたとき、夫が「家庭を顧みない」と批判する場面がある。しかし、それは「自分の理想像に収まっていてほしい」という欲望の現れであり、妻の意思や夢を尊重する姿勢とは言えない。真に愛するならば、相手の選択を尊重し、応援する勇気が必要なのである。
愛とは決して「自分を犠牲にすること」ではない。むしろ、真に他者を愛することで、人は自己の可能性を拡張させ、自分自身を深く理解するようになる。加藤はこれを「愛による自己実現」とも表現している。
ある若い男性が、重度障害を持つ恋人と出会い、日々の介助を通して彼女と向き合っていくうちに、自分の中にある優しさや忍耐、喜びに気づいたというエピソードがある。彼は言う。「彼女を支えているつもりだったけど、実は自分が支えられていた」。このように、他者との関係を通して自分を再発見する体験こそが、愛の醍醐味であり、それは単なるロマンスを超えた、人生の根幹を揺るがす経験となる。
「愛する情熱」とは、単なる燃えるような感情ではない。それは、自分の内面にある力、すなわち「誰かのために生きたい」「理解したい」「信頼したい」という自然な願いに従うことであり、同時に「自分の弱さと向き合いながら、相手を受け入れる」という精神的成熟のプロセスでもある。
加藤諦三の視点に立てば、愛することは最も崇高な“人間的行為”であり、それができるとき、人は初めて「自分自身を生きている」と実感できるのだ。見せかけの幸福を手放し、相手と真に向き合う覚悟を持つこと。それが、「愛する情熱」の始まりである。
人は時に、真実を知りながらも、それを直視しない。あるいは、無意識のうちに“自分をだまして”生きている。加藤諦三はこうした現象を、「自己欺瞞(じこぎまん)」という言葉で鋭く批判している。自己欺瞞とは、自分の本当の感情、欲求、弱さを否定し、仮の自己像に生きようとする心理的状態である。
しかし、それは表面的には安定して見えても、内面的には常に緊張と不安に満ちている。なぜなら、偽りの自己には“根”がないからだ。どれだけ周囲が称賛しても、自分の内側では「これは本当の自分じゃない」と感じ続ける。そのギャップこそが、自己欺瞞の牢獄であり、人を最も深く苦しめる原因となる。
加藤は、自己欺瞞の根本原因として「劣等感」の存在を挙げる。自分に価値がない、自分は人より劣っている──そうした感覚が強い人ほど、他人に認められようと無理をする。そして、ありのままの自分をさらけ出すことができず、「こうあるべき自分」を演じてしまう。
たとえば、仕事で常に完璧を求める男性がいる。彼は毎日深夜まで残業し、上司の期待に応え続ける。しかし、実際には「怒られたくない」「無能と思われたくない」という恐怖が原動力であり、自発的な喜びはまったくない。彼は「理想的な部下」を演じることで自己価値を保とうとしていたが、それは“虚構”でしかなかった。
加藤はこのような心理を「過剰適応」と呼ぶ。周囲の要求に従いすぎることで、自分の感情や欲求を押し殺し、やがて「本当の自分」が分からなくなる。そして、どれほど成功しても「空虚」から逃れられない。
自己欺瞞は人間関係、特に夫婦関係にも深く根を下ろす。ある主婦は、表面的には“良き妻”として夫を支え、子育ても家事も完璧にこなしていた。しかし、内面では「私の人生は何だったのだろう」と虚無感を抱えていた。
彼女は幼少期、母から「男の人に尽くすことが女の幸せよ」と繰り返し教えられて育った。その教えに従い、「夫に尽くす妻」というロールを演じ続けてきたが、それは“彼女自身の選択”ではなかった。夫との会話は義務的で、感情の交流は乏しく、心の深いところで「この人に私は愛されていない」と感じていた。
加藤は、このような夫婦関係を「仮面夫婦」と呼ぶ。両者が自分の感情を隠し合い、“演技”によって関係を保とうとするため、本当の意味での信頼関係は築かれない。だが、その状態に気づくことすら怖くて、「幸福な夫婦」という幻想にしがみついてしまう。
自己欺瞞の本質は、「私は悪くない」「私は間違っていない」という自己正当化にある。これは、心理学でいう「防衛機制」の一種であり、人間が自我を守るために無意識に行っている心の操作である。
たとえば、ある親が子どもを過剰に支配しながら、「すべては子どもの将来のため」と正当化するケースがある。しかし実際には、自分の不安や劣等感を子どもを通して解消しようとしているのかもしれない。だが、その真実に気づいてしまうと、「自分はひどい親だった」という痛みを感じなければならなくなる。だからこそ、人は「私は正しい」という物語にしがみつき、自己欺瞞を強化していく。
加藤は、「自分の過ちや弱さを受け入れることができる人だけが、真に他人を愛せる」と言う。なぜなら、自分を偽る者は、他人も信じることができず、常に人間関係において“演技”を繰り返すしかないからである。
自己欺瞞に陥った人は、やがて「自分が何者か分からない」と感じ始める。表面的には社会的役割を果たしていても、心の奥では「自分が空っぽである」ことを知っている。この状態を、加藤は「精神的孤立」と呼ぶ。
精神的孤立とは、他人と物理的にはつながっていても、心がまったく通い合っていない状態である。そこでは、孤独は倍化し、生きる意味そのものが揺らいでいく。
では、「本当の自分」はどこにいるのか。それは、怒り、悲しみ、寂しさ、不安といった“負の感情”の中にこそある。加藤は、「自分を知るとは、自分の傷を知ることである」と述べている。つまり、自分を知りたいなら、自分が最も避けたいと思っている感情にこそ、向き合わなければならない。
自己欺瞞の牢獄から抜け出すには、まず「自分は偽って生きてきた」という事実を認める勇気が必要である。そして、なぜ自分がそうしなければならなかったのか──その背景にある幼児体験や価値観を丁寧に見つめ直すことで、「偽りの自己」から距離を取ることができる。
加藤は、内面の癒やしにおいて「独りになること」の重要性を説く。孤独ではなく、「自分に向き合う静かな時間」を持つことで、人は徐々に自己を回復させていく。他人の目を気にせず、自分の本音を書き出す、自然の中で過ごす、自分の感情に耳を傾ける──こうした小さな実践が、自己欺瞞を崩し、本来の自分を取り戻すきっかけになる。
自己欺瞞の根底には、「愛されるために自分を偽る」という構図がある。しかし、加藤は明確に言う。「愛されようと努力する限り、愛は得られない」と。真の愛は、“自分らしくあること”を受け入れた先にしか存在しない。
したがって、自己欺瞞から脱却するということは、「愛される自分」ではなく、「愛する自分」へとシフトすることを意味する。相手に認められるためにではなく、自分が大切にしたいと思うから愛する。そのとき、人は初めて「自由」になる。
人は、思っている以上に「過去」に縛られて生きている。加藤諦三は、その著作の中で何度も「人間の問題の根源は、ほとんどすべて幼児期にある」と断言している。私たちが日々感じる孤独、劣等感、愛されたいという飢え、幸福を演じる衝動──それらはすべて、幼少期に築かれた“自己像”の延長線上にある。
この章では、加藤が提唱する「幼少期の傷(トラウマ)」が、いかにして大人の人生に“見せかけの幸福”を求めさせるかを見ていく。
多くの人が気づいていないが、幼い頃にどのように愛されたかは、人生全体に影響する。「あなたはあなたのままでいい」という無条件の愛を受けた子どもは、やがて他者にも寛容で、自分の感情に素直でいられる。一方、「〇〇だから愛される」「××しなければ嫌われる」という条件付きの愛しか与えられなかった子どもは、ありのままの自分を“恥”と感じるようになる。
加藤は、こうした心の状態を「否定された自己」と呼ぶ。彼らは、自分の価値を常に“外”に求め、「好かれるために演じる」ことでしか安心できない。つまり、他人の評価が“自己存在の根拠”になってしまう。そして、その結果として「見せかけの幸福」を装う人生が始まるのだ。
ここで、ある女性の実例を紹介する。彼女は一流大学を卒業し、誰もが知る企業に就職し、やがてエリートの夫と結婚した。傍から見れば、まさに「幸せを体現した女性」である。しかし彼女は、ふとした瞬間に強烈な虚無感に襲われることがあった。なぜ自分はこんなにも疲れているのか。なぜ涙が止まらないのか──。
心理カウンセリングを受ける中で、彼女はある記憶を思い出す。子どもの頃、母親は常に彼女に「成績が良ければ抱きしめてあげる」「お行儀よくすれば褒めてあげる」と言っていた。つまり、母の愛は条件付きだったのだ。彼女は「本当の自分では愛されない」と学び、「いい子」を演じることで母の承認を得てきた。
そのパターンは、大人になっても無意識に続いていた。夫には“完璧な妻”を、会社では“できる女”を演じる。それが彼女の生存戦略だった。しかし、それは彼女自身を疲弊させる“見せかけの幸福”にすぎなかったのである。
加藤が繰り返し指摘するように、「自分を愛せない人は、他人を愛することもできない」。自分の価値を信じられない人は、常に「他人からの評価」を鏡として自己像を構築するしかない。幼少期に「ありのままのあなたでいい」と肯定された経験がない人は、大人になっても“素の自分”を出すことができず、「偽りの自己」を生きるしかなくなる。
こうした人々は、自分の本音や欲求を感じることさえ難しくなる。なぜなら、感情を表すことで拒絶された過去があるからだ。結果として、何を望んでいるのか分からない、何をしたいのか見えない──そんな“自己喪失”に陥ってしまう。
加藤は言う。「自分にとって何が幸せなのか分からない人は、過去において“自分の感情が無視された人”である」と。見せかけの幸福を追うことは、そうした“感情の空白”を埋めるための無意識的な努力でもある。
親が無意識に与える支配や否定は、子どもの人格形成に大きな傷を残す。たとえば、ある父親が「男のくせに泣くな」「しっかりしろ」と息子に言い続けたとする。息子は「感情を出すことは悪いこと」と学び、自分の感情を抑圧するようになる。
加藤は、「支配された子どもは、やがて他人を支配するか、自分を抑え込んで生きるか、どちらかになる」と述べている。前者は「攻撃的な演技」、後者は「適応の仮面」である。いずれにせよ、内面には強い自己否定が潜んでいる。そしてそれが、大人になってからの人間関係や愛の形成に大きく影を落とす。
自己否定、自己喪失、見せかけの幸福──これらの連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか。加藤は、「自分の本音に触れること」からしか、癒やしは始まらないと言う。
たとえば、自分は本当は寂しかった、本当は母に甘えたかった、本当は認めてほしかった──そうした本音を、まずは自分自身が受け入れる。恥ずかしい、情けない、未熟だと思うかもしれないが、それこそが「自分の根っこ」に触れる行為である。
加藤は、「本当の自分と和解したとき、人は初めて愛する力を持つ」と述べる。見せかけの幸福から脱し、愛する情熱を持って生きるためには、「自分を知らなければならない」。そして自分を知るためには、「過去の傷」と向き合う必要があるのだ。
最後に、加藤のラジオ人生相談に寄せられた、ある女性の言葉を紹介したい。
「私はずっと“いい母”“いい妻”を演じてきました。でも、ある日、娘がぽつりと『お母さん、いつも笑ってるけど目が笑ってないよ』って言ったんです。…そのとき、自分が何十年も“演技”で生きてきたことに気づいたんです。」
この気づきこそが、「演じない人生」への第一歩である。幼少期の傷は消えないかもしれない。しかし、それを知り、受け入れ、自分の本音に従って生き始めたとき、人はようやく“幸福を装わなくてもいい人生”に向かって歩き出すことができる。
愛というと、やさしさや思いやりといった「温かい感情」を連想するかもしれない。しかし加藤諦三は、愛の本質を語る際に、こう述べている。「愛とは“勇気”である」と。これは感情ではなく、決断であり、選択であり、時に自己を差し出すリスクを受け入れる精神的な態度なのだ。
愛するとは、相手の本質と向き合い、自分の弱さもさらけ出す行為である。したがって、それには必ず「傷つく可能性」が伴う。拒絶されるかもしれない、自分の愛が届かないかもしれない──それでもなお、「それでも私はあなたを大切にしたい」と思う心。それこそが、愛の勇気である。
そして、この“愛する勇気”は、恐れに支配された心には育たない。だからこそ、愛を選ぶにはまず「恐れを超える勇気」が必要なのだ。
多くの人が、人間関係の中で「好かれたい」「見捨てられたくない」「裏切られたくない」という恐れから行動している。しかし加藤は明確に言う。「恐れから出発した関係は、どこまで行っても“操作”にしかならない」と。
たとえば、恋人の顔色をうかがって自分の本音を隠し続ける。相手に嫌われないように常に優しくする。こうした行動は、表面的には“思いやり”に見えるが、実は「自分を守るための防衛」に過ぎない。そして、こうした関係性は、いずれ息苦しさとなり、破綻する。
本当の意味で愛するとは、「嫌われてもいい」「受け入れられなくてもいい」という覚悟を持って、自分の真実を相手に差し出すことである。それは同時に、「相手にも自由を与える」ことでもある。だからこそ、愛には勇気が必要なのだ。
加藤が特に強調するのは、「見返りを求める愛は愛ではない」という視点である。人は、相手からの反応や感謝を期待してしまいがちだ。たとえば、「こんなに尽くしてるのに、どうして冷たいの?」「私はあなたのためにやっているのに」という言葉は、裏を返せば“取引”である。
しかし、真に愛するということは、相手がどう反応するかに関わらず、自分の内から湧き出た「大切にしたい」という情熱に従って行動することだ。それは、“相手のため”というより、“自分自身の誠実さ”に基づく行為である。
ある老夫婦の話がある。妻が認知症を患い、夫の顔すら忘れるようになっても、夫は変わらず毎朝「おはよう」と声をかけ、彼女の手を握った。彼は言った。「彼女が私を覚えていなくても、私は彼女を知っている。だから私は、私であり続けたい」。これこそが、“愛するという勇気”である。
人は誰しも、自分が傷つくことを避けたいと思う。だから、相手が自分の期待通りでなければ怒ったり、関係を断ったりする。これは自己防衛の一つであるが、加藤はこれを「愛の名を借りた支配」だと指摘する。
たとえば、親が子に「あなたのためを思っている」と言いながら、実は自分の理想像を押しつけていることがある。恋人関係でも、「私を幸せにしてくれる存在」として相手に依存するケースが多い。しかし、こうした関係は「愛する」というより、「所有」や「期待」である。
愛するとは、相手が自分の枠に収まらなくても、ありのままを受け止めようとする心である。つまり、自己中心的な願望を一歩引き、自分を超えて“相手の現実”に敬意を払う姿勢が求められる。それが、加藤の言う「自己超越としての愛」である。
加藤はまた、愛とは「自分の弱さを認めること」とも言う。強く見せたい、できる人と思われたい、嫌われたくない──そうした欲望は、人を“仮面”で覆い、本当の関係を築けなくする。
しかし、愛するという行為には、自分の不完全さ、未熟さ、恐れ、嫉妬といった“人間らしい部分”を正直に認め、それを他者と共有する勇気が含まれている。そこにこそ、人間同士の深い信頼関係が芽生えるのだ。
たとえば、ある男性がパートナーにこう打ち明けた。「本当は君がいないと怖い。でも、強がってしまう自分がいるんだ」。この言葉に対し、パートナーは涙を流してこう答えた。「ありがとう、やっとあなたに会えた気がする」と。
弱さをさらけ出すとは、“支配される”ことではない。むしろそれは、「真実の自己」を差し出すことによってしか得られない深い“絆”の扉を開く行為なのである。
ここで、加藤の著作や講演でも紹介されてきたような、象徴的な事例を紹介したい。
ある青年は、強い劣等感を抱えて生きていた。家庭では兄と比較され、学校では無口で目立たない子どもだった。彼は「誰にも必要とされていない」と感じていた。そんなある日、知的障害を持つ子どもたちのボランティア活動に誘われた。最初は戸惑いがあったが、ある子どもが彼にしがみついて「また来てくれる?」と言った瞬間、彼の中で何かが変わった。
「この子のために何かしたい」。そう思ったとき、彼の中に“愛する情熱”が芽生えた。そして、その体験をきっかけに、彼は福祉の道に進む決意をした。後に彼は語る。「自分の人生が意味を持つのは、誰かを愛したときだった」と。
この青年は、愛することで“自分の殻”を破り、世界と関わる勇気を得たのだ。加藤が言う「愛することによって、自己実現が始まる」とは、まさにこのような変容を指している。
では、私たちはどうすれば「愛する勇気」を持てるのだろうか。加藤は、それにはまず「自己受容」が不可欠だと述べている。自分を受け入れられない人間は、他人を受け入れることができない。なぜなら、常に“自分の欠陥を見抜かれるのではないか”という不安に囚われているからである。
だからこそ、自分の過去や感情、弱さを正直に見つめ、「これが自分なのだ」と認めること。それが、他者をもあるがままに受け入れる土台となる。そして、そのとき初めて、“期待ではなく尊重”をベースにした愛が可能になる。
加藤はこうも言っている。「愛は、戦わない者には訪れない」。それは他人との戦いではなく、自分自身との戦いである。恐れに打ち勝ち、虚勢を脱ぎ捨て、自分を差し出す勇気。そこにこそ、本当の愛のはじまりがある。
かつて幸福とは「感じるもの」であり、内面的な実感に基づく静かな喜びだった。しかし現代では、幸福は「演じるもの」「見せるもの」へと変貌した。特にSNSの普及によって、人は日常の一瞬を切り取り、「幸せそうな自分」を世界に向けて発信するようになった。
誕生日の華やかなパーティー、美しい料理、笑顔で囲む家族写真──それらは“本当の幸福”ではなく、“幸福に見える演出”である場合が多い。加藤諦三が言う「見せかけの幸福」が、かつてないほど社会的に奨励され、広がっている。
では、なぜ私たちはここまで“見せる幸福”に囚われるのか。それは、「他者からの承認」が自己価値の土台になってしまっているからだ。SNSは、自分が愛されているか、認められているかの指標を「数字」(いいね、コメント、フォロワー)で可視化してしまう。その結果、人は“本当にどう感じているか”より、“どう見えるか”に神経をすり減らして生きるようになった。
一見すると、今の社会は豊かで自由だ。誰もが情報を発信でき、自己表現の手段も多様化した。しかしその裏側には、目に見えない「幸福でなければならない圧力」がある。SNSで幸せそうな友人の姿を見るたびに、「自分は劣っているのではないか」「もっと頑張らないといけない」と焦燥感を覚える。
加藤は、このような状態を「精神的飢餓」と表現する。物質的には満たされていても、心はどこかで飢えている。なぜなら、その人が手に入れた“成功”や“幸福”が、自分自身の本音や価値観に基づいていないからである。
実際、現代のメンタルヘルスの統計を見れば、抑うつ、不安障害、自殺などが増加していることが分かる。「みんなが幸せそうに見える社会」の裏で、「自分だけが苦しい」と感じている人が急増している。これは偶然ではない。「見せかけの幸福」が広がるほど、人々はますます孤独と疎外感を抱えるようになるのだ。
ある人気インフルエンサーの事例が、その象徴として語られる。彼女は「理想のママ」として絶大な支持を集め、家事、育児、ファッション、美容すべてに完璧を求める姿が称賛されていた。毎日インスタグラムに投稿を重ね、常に笑顔で、美しく、ポジティブだった。
しかし、ある日突然、彼女はすべてのSNSアカウントを削除し、沈黙した。後日、彼女はあるインタビューでこう語った。
「私は、自分が壊れていることに気づかなかった。毎日“幸せそうな私”を演じることで、自分の中の孤独や怒りを封じ込めていた。だけど、ふとしたときに『これは本当の私じゃない』と気づいて、すべてが怖くなったんです。」
加藤が「演技の自己」と呼ぶこの状態は、社会的に賞賛されるほど、ますます抜け出しにくくなる。周囲の期待が高まり、自分を取り戻すために“仮面”を外す勇気が持てなくなるからだ。
現代人は「自己を表現しなければならない」という圧力にもさらされている。SNSでは、「あなたらしさを見せて」「個性を出して」「好きなことを仕事に」といったメッセージが氾濫している。だが実際には、何が“自分らしさ”なのか分からない人も多い。
加藤は、「本当の自己は、表現するものではなく、気づくものだ」と述べている。つまり、“他人にどう見せるか”を基準にした自己演出は、本来の自己を見失わせる危険を伴う。自分の内面に耳を傾けず、ただ社会の期待やトレンドに合わせて発信を続ければ、やがて自己との乖離が限界を超える。
自己喪失の先に待つのは、精神的な空白、すなわち「自分の人生を生きていない」という実感である。そしてそのとき、人は「幸福に見せかけること」にも意味を見出せなくなる。
では、なぜ「見せかけの幸福」は、ここまで急速に社会に蔓延しているのか。その根本原因は、「承認不安」と「比較依存」にある。人間は本来、他者との関係の中で自己を形成するが、現代はそれが“過剰”になっている。
SNSという「他者の鏡」の中で、私たちは常に比較され、測定されている。そして、認められることでしか“安心”を得られない状態に陥る。これはまさに、加藤が指摘する「条件付きの自己肯定感」の表れである。
本来、人間の幸福とは「内的に満ちていること」であり、「外的に評価されること」ではない。だが、評価軸がすべて外部化された現代では、人々は「見せかけ」ることに膨大なエネルギーを注ぐようになってしまった。その結果、幸福の本質からどんどん遠ざかっていく。
現代社会は、「不幸を見せてはいけない」という風潮にも満ちている。特に若年層や女性たちは、「明るく」「ポジティブで」「前向き」であることが無言の圧力として求められる。ネガティブな感情は“処理すべきもの”“改善すべきもの”として排除されていく。
だが、加藤はこうした風潮を危険視する。なぜなら、「人間は弱くていい」「不完全でいい」という自己肯定の感覚こそが、心の安定には不可欠だからである。すべてをポジティブに変換しようとする社会では、怒りや悲しみといった自然な感情が否定され、その結果「本音がどこにあるか分からない」状態に陥ってしまう。
見せかけの幸福とは、「不幸を見せられない社会」が生み出す“生存戦略”でもあるのだ。
では、このような社会の中で、本当の幸福をどう見つければよいのか。加藤が一貫して伝えているのは、「内面の静けさ」「本音との対話」「無条件の自己肯定」である。
まず、他人の目を一度忘れる時間を持つこと。SNSから距離を置き、自分が何を感じているか、何を望んでいるかに耳を澄ます。完璧でなくてよい、劣っていてもよい──そうした感覚を受け入れることで、「幸福を演じる」必要がなくなってくる。
そして最も大切なのは、**「自分が何を愛せるか」**を知ることだ。加藤が説くように、「愛するという行為こそ、人間を救い、幸福を実感させる力」だからである。他人からの賞賛ではなく、自分の内から湧き出る“愛する情熱”に従って生きること──それこそが、現代社会の「見せかけの幸福」を超えて生きるための鍵なのである。
「自分らしく生きたい」と願う人は多い。しかし、それが何を意味するのか、明確に答えられる人は少ない。加藤諦三が言う「本当の自分で生きる」とは、決して自己主張や個性の強調ではない。それはむしろ、自分の“内なる声”に誠実であること、自分を偽らず、自分の感情・価値観・限界を受け入れて生きるという、生き方の“質”を指している。
加藤は『自分に気づく心理学』の中で次のように述べている。
「自分を否定して生きる人間は、必ず他人の期待を生きることになる。」
この言葉が象徴するように、「本当の自分」とは、他人の期待や社会的役割から解放され、自分自身の“魂の輪郭”に従って生きる存在である。そして、それを実践することは、実は非常に勇気のいる行為でもある。
多くの人が、本当の自分を生きることに怯えている。その理由は明確である。本当の自分をさらけ出すことは、「拒絶されるかもしれない」というリスクを伴うからだ。だから人は、他人に受け入れられる“良い子の自分”や“できる自分”を演じることで安心を得ようとする。
加藤はこれを「他人の人生を生きること」と呼ぶ。そしてこう断言する。
「他人の期待に合わせて生きることほど、苦しいことはない。」
他人の目に映る自分を維持し続けることは、心にとっては“窒息”であり、時間とともに“自分が自分であるという実感”を喪失していく。自己欺瞞の連続は、やがてうつ状態や極端な無気力、対人恐怖といった心の病を引き起こす。
「本当の自分で生きる」とは、そうした“偽りの安心”を手放し、たとえ不完全でも、たとえ未熟でも、「私はこれでいい」と肯定して生きる姿勢である。
「自分の本音に正直であること」──それが加藤の言う「本当の自分で生きる」核心である。しかし本音とは、常に美しいものではない。そこには、嫉妬、怒り、孤独、無力感、羨望、憎しみなど、“理想の自分”には似つかわしくない感情が含まれている。
加藤はそれを否定しない。むしろ、そこにこそ人間の尊厳と回復の可能性があると説く。
「自分の醜さを受け入れたとき、人は初めて強くなれる。」
本音を感じることは怖い。なぜなら、それは自分が「思いたくなかった自分」と対面することでもある。しかし、それを否定し続ける限り、人はずっと“仮面”のまま人生を生きることになる。
本当の自分を生きるとは、そうした醜さと向き合い、受け入れ、他者に正直であろうとすることである。それは「弱さではなく強さ」だというのが、加藤の一貫した立場である。
加藤は「人間は変われる」と繰り返し述べている。それも、“努力”や“自己改革”によって変わるのではない。むしろ、「いまの自分が偽って生きている」と気づき、「もうやめよう」と“選び直すこと”によってのみ、変化は始まる。
かつて家庭内暴力に悩まされていたある女性が、長年「我慢が美徳」と信じてきた自分の価値観に疑問を抱き、「私は幸せになる権利がある」と思ったとき、初めて家を出る決断をしたという。彼女はこう言った。
「初めて、自分の人生を自分の手に戻せた気がした。」
この「選び直し」ができるとき、人は“演じる人生”から“感じる人生”へとシフトする。加藤はその変化を「自己回復の第一歩」と呼び、そこに真の癒やしと再生があると確信している。
現代人が本当の自分を生きられない最大の障害は、他人の目である。誰かにどう思われるか、嫌われないか、失敗して笑われないか──そうした“外部の基準”が、内面の感情や欲求を押し殺していく。
加藤は、この状況を「精神的奴隷状態」と呼んだ。つまり、他人に見張られ、評価され、比較されることを“内面化”してしまった人は、すでに自分の人生の舵を失っているのである。
そこから抜け出すために、加藤は“ひとりになる時間”を持つことの重要性を説く。テレビやSNSから離れ、紙に自分の感情を書き出す。誰にも見せない「本音日記」をつける。自分が怒ったとき、悲しかったとき、なぜそう感じたのかを問い直す。
そうした小さな実践が、「私は誰のために生きているのか」という根源的な問いへの手がかりとなり、本当の自分に近づく手段になるのだ。
加藤は、「本当の自分を生きている人こそ、他人を愛する力を持つ」と説いている。なぜなら、自分に正直である人間は、他人にも正直であろうとするからだ。偽りの自己を演じている人間は、常に他人を恐れ、操作し、支配しようとするが、本音を生きている人は「関係の自然な流れ」に身を任せることができる。
たとえば、過去に家庭内で“いい子”を演じ続けたある男性が、加藤の著作を通して「自分はずっと怒りを抑えてきた」と気づき、初めて父親に怒りをぶつけたという。そしてその数カ月後、彼は恋人と穏やかな関係を築けるようになった。「自分の感情を抑えなくなったら、人にも優しくできるようになった」と彼は語った。
このように、「本当の自分で生きる」という決断は、人間関係全体を変えていく力を持つ。それは決して一人の問題ではない。「自分を生きる」ということは、「誰かを本当に愛せるようになる」ということと同義なのだ。
現代社会では、見せかけの幸福が標準化されている。SNSの中では、誰もが幸福そうに笑い、努力家で、美しく、優しく、前向きで、豊かでなければならない。そうでなければ、“何かが欠けている人”という烙印を押されてしまうような空気がある。
しかし、私たちはもう気づき始めている。どれだけ表面を繕っても、どれだけ承認を集めても、自分の内側が満たされない限り、人は幸福にはなれない。笑顔の裏で泣いている人、成功の陰で孤独に押し潰されている人、自分の感情すら見失った人──そうした人々が、静かに、しかし確実に苦しんでいる。
加藤諦三が繰り返し語るように、「幸福の演技」は一種の精神的な牢獄である。そこから自由になるためには、「本当の自分」に立ち返り、「誰かを愛する情熱」によって自らの人生を再び温め直すことが必要だ。
本稿を通じて明らかになったことは、「愛する」という行為こそが、人間を偽りから解放する最大の鍵であるという事実だ。なぜなら、愛するということは、他人のために“本当の自分”を差し出すことだからだ。
それは、自己犠牲ではない。「これが私です」と誇れる生き方である。加藤が言うように、「愛とは勇気」であり、「愛とは自己超越」であり、「愛とは自己実現の始まり」でもある。
愛する情熱は、外から与えられるものではない。それは、自分の内側から湧き上がってくる生命の力である。そしてその力は、決して「演じる自分」からは生まれない。むしろ、痛み、過去の傷、不完全さ、すべてを受け入れた“裸の自分”にこそ宿る。
加藤は、「人は誰かを愛しているときに、最も深く“生きている”と実感する」と語っている。逆に言えば、他人の期待に応え、誰にも本音を見せずに生きる人生には、どれほど社会的に成功していても“生の実感”が伴わない。
見せかけの幸福を捨てて、愛する情熱に従って生きること──それは、周囲から見れば不器用で、非効率で、損な生き方に見えるかもしれない。しかし、それは「魂に誠実な生き方」である。そして、魂に誠実な人間だけが、他人の魂にも誠実になれる。
自分の弱さを恥じず、誰かの孤独に寄り添い、自分の価値を他人の評価ではなく“愛する力”に見出す。そうした生き方を選んだとき、人はようやく“自分の人生”を歩み始めるのだ。
これまでの章で見てきたように、加藤諦三の思想は、単なる心理学や自己啓発ではない。それは、人間の根源にある「孤独」「承認欲求」「劣等感」「偽り」──そうした普遍的テーマに対して、「誠実に生きるとは何か」「愛するとはどういうことか」を問い続ける“人生哲学”である。
現代のように、あらゆる価値が視覚化され、数値化され、比較される社会において、「自分に正直に生きる」「誰かを無条件で愛する」という行為は、極めて難しく、同時に極めて尊い。
見せかけの幸福に疲れ果てたすべての人へ──
あなたがいま感じている違和感、虚無感、不安は、“本当の幸福”を求める心の叫びかもしれない。その声を無視せず、耳を傾けることから始めてほしい。そして、他人の人生ではなく、あなた自身の情熱に従って、愛することを恐れずに生きてほしい。
結びに
「愛する情熱と見せかけの幸福」。この二つの在り方のあいだで揺れながら、私たちは生きている。だが、選ぶことはできる。演技をやめ、愛することを選ぶことができる。それは、他でもない、あなた自身の選択である。
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