貴族社会に於いて、結婚は政治的・経済的にも大事なものでした。夫は婿として嫡妻の実家に入るので、政治的な利益や財産を得るという意味でも重要でした。夫の父親にも、「息子が有力者の家に婿入りすれば、自分の出世の道が開けるかも」という思惑があったはずです。
一方、妻の父親にとっても、誰を婿にするかは非常に大事ことです。とんでもない輩と結婚して子孫が没落するのだけは避けたいので、婿選びも慎重を期しました。
左大臣・源正信は女の倫子を天皇か東宮(皇太子)に入内させたいという思惑がありましたが、時の花山天皇が早々に退位し、次の一条天皇は幼すぎて年齢的に釣り合いがとれませんでした。そこで摂政・藤原兼家の子との結婚を図ったのでしょうが、道長の兄である藤原道隆と藤原道兼はすでに結婚していたので、末っ子の道長と縁談を結びました。
雅信にとって、末っ子なので出世の可能性が低い道長と倫子の結婚にはあまり期待を持てなかったと思います。しかし、宇多天皇の孫という血筋を持つ雅信の女と結婚した道長は、その政治的・経済的後見を存分に活用して台頭します。ついには摂政政治の最盛期を築き、雅信の子孫も宇多源氏の貴族として反映しました。
紫式部のように宮中で働く女房は男性貴族と顔を合わせる機会もありましたが、高い身分の家の女性は女房にならなかったとされています。平安時代の高貴な女性は、男性に顔を見られるのを恥と考えていました。男性に顔を見せることはほとんどなく、几帳という衝立のようなものに隠れたり、扇で顔を隠したりしていました。外に出ることもないので、現代人が考えるような恋愛結婚はほぼなかったと考えられます。
結婚相手として求められていたのは家格、そして和歌や有職故実(古来からのしきたり)などの教養でした。当人の独断ではなく家中で話し合い、結婚相手にふさわしいかどうか判断していました。
紫式部が記した「紫式部日記」では「美人の条件」として長い黒髪を挙げていますが、これは単に髪の美しさだけが求められた訳ではありません。髪が長いと肉体労働が出来ないので、高い身分の印としても見られていました。同様に、色白や小太りも、「外で働いていないことの証し」であり、ちょっとした「モテの条件」でありました。
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