また、メンデルスゾーンは1835年、26歳の時にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の監督に招かれて以降、亡くなるまでその地を中心に活躍を続けた。メンデルスゾーンはオーケストラという組織を整え、団員たちの労働環境を改善し、わずかな間に同楽団をヨーロッパ有数のレベルに育て上げている。それまで作曲家が片手間にやっていた指揮者の役割を独立させ、明確にしたのもメンデルスゾーンの大きな功績だし、作品はやや保守的でも、メンデルスゾーンは新しい道を切り拓く進歩的なところもちゃんと持ち合わせていた。
良家の子息にして秀才、しかも愛情あふれる教養豊かな母親と厳格で真面目な父親にしっかり育てられたメンデルスゾーンだから、当然、女性関係もキレイでそつがない。
1831年、22歳でミュンヘンを訪れた時、姉のファニーに書いた手紙に「昨夜、ちょっとした恋愛遊びをして」といった記述がある。この時のお相手は、デルフィーネ・シャウロートというまだ17歳のピアニストだった。二人は以前にも一度会っていて、メンデルスゾーンは前年から書き始めていたピアノ協奏曲第1番をその地で仕上げ、バイエルン国王が臨席した慈善演奏会で自ら指揮し初演している。この時ピアノ・ソロを担当したのがデルフィーネで、この作品はデルフィーネに贈られた。
若き二人の共演に大喜びだった国王は、「余が仲人を務めるから、二人は結婚したらどうだ?」とのたまったそうだが、メンデルスゾーンは丁重に断ったという。でも、ファニーへの手紙に「ちょっとした恋愛遊び」と書くところを見ると、多少のロマンスはあったのだろう。
その後は浮いた話もほとんどなく、メンデルスゾーンは次に本気で好きになった女性と結婚することになる。その出会いは1836年、27歳の時だった。お相手は、メンデルスゾーンがフランクフルトの親戚の家に滞在していた時に紹介された娘で、名前はセシル・ジャンルノー。牧師の娘で、父親を早くに亡くし、若く美しい夫人に育て上げられた。年はメンデルスゾーンの8歳年下で、教会の合唱団に所属する美少女だったという。
実は、メンデルスゾーンがジャンルノー家に出入りするようになって、最初にその仲を噂されたのは若く美しいとはいえ、すでに40を過ぎていた夫人の方だったという。メンデルスゾーンはすでに超有名人だったから、日に日に親しくなっていくものの、まさか自分が本気で愛されているとは思っていなかったようだ。どんどんのめり込んでいったのは、メンデルスゾーンの方だったと言われている。
でも、冷静沈着なメンデルスゾーンは、感情に任せてぱぱっと結婚を決めたりはしない。いよいよ二人の関係が盛り上がってきたところで、いかにもメンデルスゾーンらしい行動に出た。それは、一定期間セシルと離れて自分の気持を確かめてみる、というものだった。こうしてメンデルスゾーンは約1ヶ月の旅に出て、自分は本当に彼女が好きなのか自問自答したという。なんという手堅さ! なんという生真面目さ! 結局、旅から帰ったメンデルスゾーンはセシルに結婚を申し込む。セシルの方は驚きつつも申し出を喜んで受け入れ、二人は1837年3月にフランクフルトで結婚式を挙げた。メンデルスゾーン28歳の春だった。
ところが、この式にメンデルスゾーンの親戚で出席したのはフランクフルト在住のおばさんただ一人。母親も(父親はすでに他界)、姉妹も弟も、誰ひとり出席しなかった。富豪の長男の結婚式にしては、あり得ない状況だ。母親は旅行嫌いで有名だったそうだが、とても仲が良かった姉のファニーも、妹のレベッカも出席していないのはおかしい。