航海は楽しかった。海は穏やかで、生暖かい夜の闇の中から舵手の歌うもの哀しげなスペインの歌が聞こえてくる。ショパンとサンドは肩を寄せ合って、陶然として時の流れを楽しみ、海面をすべる船の音と歌声の短調な響きに聞き入っていた。サンドの回想録にも出てくるが、その時の舵手の歌がバルカロールの情調をもつト長調のノクチュルヌ(作品37の2)に反映していると言われる。
明けて8日午前11時半、フランスの6月のような暑さの中、パルマに到着した。真っ青な空と地中海の真夏の太陽は、病身のショパンの目に眩しかったことだろう。
このマヨルカ島最大の町パルマに着くと、サンドはショパンと子供たちを港に待たせておいて宿を探しに出かけた。しかし町は内乱を逃れてきた避難民で溢れかえり、その混乱のただ中で住む所を見つけるなど容易ではなかった。やっとのことで粗末な下宿屋にともかく部屋を借りることが出来たが、水夫やジプシーや娼婦たちが集まる騒々しい界隈にあって、ベッドのノミや、すえた油の臭いと蚊の襲来でショパンは気も狂わんばかりになった。
しかし数日後、フランス領事ピエール・フリュリの尽力もあって、パルマの北7キロほどの田園地帯エスタブリメンツの村に貸別荘を見つけることが出来た。借り受けた別荘は「風の家」と呼ばれ、家賃は月に100フラン、質素ではあったがショパンを有頂天にした。入居の当日、11月15日にパリのフォンタナに宛てた手紙がある。
ユリアン・フォンタナは同郷の友人で、ワルシャワ高等音楽学校の同級生。パリではフレデリックの忠実な友人として私設秘書のような役割も果たしていた。楽譜の清書、写譜、出版社との折衝、日用雑貨の手配まで引き受けた。
ぼくはパルマにいる。椰子の木、ヒマラヤ杉、サボテン、オリーヴ、オレンジ、レモン、アロエ、いちじく、拓留などに囲まれて。どれもこれも植物園の温室にあるようなものばかりだ。トルコ石のような空、紺碧の海、エメラルドのような山々、天国のような空気。1日じゅう太陽が輝き、みんな夏服で出歩いている。暑いんだ。夜になるとギターや歌声が何時間も続く。葡萄蔓におおわれた巨大なバルコニー、ムーア風の城壁。なにもかも町を含めて、アフリカ風の趣きなんだ。一言で言えば素晴らしい生活だよ。でもぼくを愛していてくれよ。
プレイエルのところに行ってみてくれないか。ピアノがまだ届かないんだ。どんな経路で出したんだろう。
まもなく君にプレリュードを送るよ。世界で最も魅惑的な場所にある、素晴らしい僧院に住むことになっている。海、山、椰子の木、共同墓地、十字軍の教会、廃墟になったモスクの寺院、千年を経たオリーブの樹。ああ親愛なる君、ぼくはほんとうに生き始めたような気がする。最も美しい全てのものがそばにある。ぼくは前よりましな人間になったよ。
両親からの手紙、それから君が送りたいものはみんなグジマワに渡して下さい。彼がいちばん確実な宛先を知っているから。ヤシウにキスを。ここでなら彼もどんなにか早く元気になるだろうに!
プレイエルに原稿はもうじき送ると伝えてくれ。ぼくの知人にもぼくのことはあまり喋らないでほしい。後日またゆっくり書くが、冬の終わりには戻るだろうといっておいてくれ。ここでは郵便の集配は週にたった1度きりなんだ!
この手紙は当地のフランス領事を通して送ることにする。両親あての手紙を同封するので発送して下さい。君自身の手で投函を。
ヤシウには後で書く。
素晴らしい僧院というのは、フランス領事が紹介してくれた山の上の静かな修道院で、以前カルトウハ修道会が使っていたもので、パルマから馬車で3時間ほどかかるバルデモサという村にあり、独房が安く貸し出されていた。ショパンは3部屋予約した。ショパンたちは知らなかったけれど、土地の人々からは呪われた場所と信じられていて長いあいだ買い手がつかないものであった。
パルマでの最初の1週間は晴天に恵まれたが、次の週に入ると天候は一変し、強風と豪雨が直撃した。寒暑の落差が激しく、もともと頑健な野生の人々が住むに適した土地柄で、近代的な設備が整えられた今日と違って病人が保養に来る所ではなかったのである。
散歩の途中、集中豪雨に見舞われたショパンはずぶ濡れになり、悪寒と咳の発作に襲われた。最初は気管支炎に過ぎなかったが、やがて頑固なカタルとなり、発熱と肺結核に特有の症状が現れてショパンを苦しめた。フォンタナに宛てた12月3日付けの手紙がある。
プレリュードの原稿は送れない。まだ仕上がっていないんだ。この2週間、犬みたいに病気をしていた。18度の暖かさで、薔薇とオレンジと椰子といちじくにも関わらず、風邪をひいてしまったんだ。
この島の最も有名な3人の医者に診てもらった。1人は吐いた痰の臭いを嗅ぎ、2人目は痰の出てくるところを叩き、3人目は痰が出る時身体に耳をつけて聴診したんだが、1人目はぼくがくたばったと言い、2人目は死にかけていると言い、3人目はくたばるだろうと言った。けれども今日のぼくはいつもと同じだ。しかしこれはプレリュードには悪い影響をあたえたな。君がいつ受け取れるかは神のみぞ知るだ。
数日のうちに世界で最も美しい所にすむことになるだろう。海、山、全てある。そこは大きな古くさびれたカルトウジオ会の修道院で、僧侶たちはまるでぼくのためにメンディサバル(サンドの友人だったスペインの政治家)に追放されたようなものだ。パルマにも近いし、これ以上素晴らしい所はない。あのアーケード、まさに詩的な共同墓地、あそこへ行けば、ぼくもきっとよくなるだろう。
1つだけ問題がある。ピアノがないんだ。どうなっているか調べて下さい。病気のことは人に言わないで欲しい。でないとまたとんでもない話をでっちあげられるから。
「風の家」に医者たちがショパンを往診したあと、悪いことにあそこには結核病みがいるという風評が広まった。当時のスペインでは結核は一般におそろしい感染症と信じられていたのである。家主のゴメスは立ち退きを要求し、消毒や家具の焼却費まで請求した。ショパンたちにとっての救いはバルデモサの僧院に部屋をとっておいたことであった。修道院の部屋が住めるようになるまでの数日は、親切なフリュリ領事が自宅に泊めてくれた。
12月15日、かねて手配してあったバルデモサの修道院僧坊に引っ越した。荷車に全財産を積み込んで。家具や厨房用品は幸いなことに、前の住人だったスペイン人夫婦から300フランで譲り受けることができた。
プレイエルのピアノはなかなか届かなかった。やむを得ず土地のピアノを借りて作曲を始めた。サンドのグジマワへ宛てた報告はそのピアノは、あの子を救うどころかむしろ苛立たせてしまうのです。それでもショパンは仕事をしていますという切ないものであった。
マヨルカ島は、現在では海岸沿いに白亜の近代的なホテルがずらりと立ち並び、美しいヨットハーバーで知られ、訪れる観光客は年間30万人を超えると言われるが、昔ショパンが住んでいた家もサンドとの愛のエピソードによって人気を集めている。しかし二人が暮らした当時は、カトリックの信仰に凝り固まっていたパルマの貴族たちにスキャンダラス反逆的な女闘士やその情人が受け容れられるわけもなかった。
ショパンの肺結核が伝染するとか、若い愛人と暮らす不道徳な女とか、教会にも行かないとか、地元の人々の間での評判は散々で食料や日用品まで法外な値段で売りつけられたものだが、現在ではサンドの著書が売られ、土産品の店まであって、二人のお陰で住民たちの生活が潤っているのだから皮肉なものである。
二人が住んだ家は、入場料225ペセタ、邦貨にして300円で内部も公開されている。長い歳月に耐え暗い表情をたたえたバルデモサの僧院には、ショパンが使っていたとされる2台のアップライトピアノが保存されているが、1つがパルマで先に調達したものらしくブランド名はヘルマノス、もう1つが1月半ばにパリから届いた待ちこがれたプレイエルである。
ショパンの健康状態は依然として勝れなかったが、サンドは献身的に世話をやいた。ショパンは早くから病弱であったが、ショパンの人間関係には弱者が強者に対して持つ甘えによる横暴みたいなものがしばしば現れている。ところで、フランスから連れてきたはずのお手伝いさんのアメリーはいったいどうしたのだろう。サンドの言によれば、商人や宿の亭主とたくらんで財産を盗もうとした性悪女、しかし私の大好きだったアメリーは翌年の春、一行がマルセイユに戻った時に解雇されたのは確かなのだが。ともかく炊事、洗濯、家族の世話、家計の切り盛りの一切をサンドが受けもっていたようだ。新しく雇った召使いは悪質で、しきりに食料などをくすねた。よほど腹にすえかねたのであろう、サンドが書いた「マヨルカの冬」はこの島へのヒステリックなまでの敵意に満ちている。