1854年も、1月に挙行された夫婦揃ってのハノーファー演奏旅行で幕を開け、希望に満ちたスタートを切った。ハノーファーでは新しい友人ブラームスとヨアヒムに再会した。それだけに、もともとローベルトの病の重大さを認めまいとしてきたクララにとって、2月にローベルトが心身ともに深刻な状況に陥ったのは思いがけないことだった。クララは「16日間ベッドに横になることなく、1日中ローベルトのそばについていた」「興奮のあまり君に何かしてしまうかもしれない」という不安から、ローベルトと医者たちは、クララが家から離れていたほうがよいと判断する。ローベルトはほぼ15年前に1度、ヴィークの憎悪によって迫害を受けていると感じていた頃、みずからとクララに危害を及ぼしかねない似たような精神状態に追い詰められた事があった。「クララ、もし君が昨日、僕のところにいたら、僕は君と僕自身を死に追いやりかねなかったよ」。ローベルトが2月27日に自殺を試みて未遂に終わったとき、クララはすでに、懇意にしていた盲目のロザーリエ・レーザーのところに身を寄せていた。「当時私はただおぼろげに予感していただけだった」。クララはおそらく、ローベルトが1831年に症状が出て苦しんだ梅毒の後遺症にだいぶ以前から悩まされていたことについても、軽い疑いを抱いた程度だろう。
1854年3月4日、ローベルトはフランツ・リヒャルツ博士のエンデニヒ精神病院に入院した。これはローベルト自身の希望だった。クララはローベルトに会いにいくことを禁じられ、それはローベルトの死の直前まで守られた。ローベルトの入院からわずか数日後、絶望したクララはジュッセルドルフ管弦楽団の前コンサートマスターで、当時はボンの音楽監督だったヨーゼフ・フォン・ヴァジレフスキーのもとを訪れる。「敬愛する友人でいらっしゃるあなたは、夫について私に一言も書いてくださいません。なんとやきもきさせるのでしょう!…ローベルトがどんな風に暮らしているのか、なにをしているのか、まだ謎の声が聞こえるのか、こういったことすら私にはわからないままで、胸が張り裂けそうです。今はローベルトについてのどんな言葉でも、私の傷ついた心にとっては慰めなんです。何らかの結論を聞きたいと思っている訳ではありません。ただローベルトがどんな風に眠っているのか、昼間なにをしているのか、そして私のことを気にかけてくれているのかどうか、ただそんなことを知りたいだけなのです。当初、ローベルトはクララについて一言も触れない。9月になってようやくクララの手紙を欲しがった。最後となった8通目の手紙を書いたのは、1855年5月5日のことである。
クララは金銭援助の申し出をフェリックス・メンデルスゾーンの弟で、家業の銀行業を継いでいたパウル・メンデルスゾーン以外は全て断った。パウル・メンデルスゾーンからの借入金も程なくして返済する。「神様が私に才能を贈ってくださった」ので、ローベルトと子供たちを自ら養いたかった。まもなくレッスン再開。「神様は私がどんなに困難を感じているかご存知です。でも、こうすることが自分自身を何とか保っていくための唯一の手段であると確信しています」。
クララを慰め、支えたのは、アルベルト・ディートリヒ、ユリウス・オットー・グリム、ヨアヒムといった音楽家の友人たちであったが、もちろん最大の支援者はブラームスである。クララはブラームスを、「これまでどんな友人に対しても感じたことが無いほど愛していました。私たちはお互い心底よく理解していました」。ブラームスはローベルトが亡くなるまでデュッセルドルフに滞在し、クララの近くに控えていた。35歳のクララは、「息子」とその「母親代わり」と語り、信頼関係を示す「君」という呼びかけを互いに使っていたが、この時期の親子の役回りは、実際のところ逆である。ブラームスの「痛みを癒してくれる思いやり」、「溌剌とした精神」、「恵まれた天賦の才」とりわけ「みずみずしく、力強い生まれつきの活発さ」によって、クララはこれまで経験したことのないような生きることの喜びにーいつもというわけではないにせよー満たされた。「あらゆる苦悩を私とともに背負ってくれた上に、心を晴らしてくれるようなことだけをしてくれる」人物は、ブラームスを置いて他にはない。エンデニヒから届く知らせに一喜一憂して、希望と希望なき喪心状態を行き来するクララ、息苦しくなるほどの心配と過重な負担から神経過敏で苛立ちやすいクララ、発作的に泣き出したり嘆いたりするクララーこのような女性を相手に、苦悩を晴らすという課題に応えるのは、ブラームスにとって決して簡単なことではなかっただろう。
この時期のクララは、ブラームスなしには、考えをまとめ、行動を決することがほとんどできなかった。ブラームスは「私のことを案じて、自ら望んで私に付き添い、勇気が挫けそうになると励ましてくれた」。その上ブラームスはまた、もはやローベルトから受けることの叶わない芸術上のインスピレーションの新たな供給源でもあった。すなわちブラームスは、クララに新作と取り組む機会を与えてくれたのである。「ローベルトの音楽は・・・誰も越えることができないほど詩的で、常にたおやかで、美しく、感情に優しく訴えかけてくる。ヨハネスの場合、いつもそうとは限らない。時にはその逆で、峻厳に響くことがある。・・・その人物同様、最も甘美な神髄は、しばしば粗野な外見の陰に隠されている。