婚活パーティのお知らせ!2025.05.……
婚活なこうど Zutto(福岡県)
2025.05.10
ショパン・マリアージュ
第二章:自己肯定と結婚の質
「あなたがいないと私は生きていけない」
「あなたが愛してくれなければ、私は私でいられない」
このような言葉を、情熱的な愛の表現として美しく描く物語がある。だが、加藤諦三はこうした言葉に潜む危険性を見逃さない。彼はこう言う。
「自己肯定できない人間は、結婚に癒しを求めすぎて、相手を責める」
つまり、自分の存在価値を確かめる手段として結婚を利用する人は、やがてその関係性において深い苦しみを味わうことになる。なぜなら、結婚は“心の穴埋め”ではなく、“心を持ち寄る場”だからである。
本章では、自己肯定感が結婚生活にどのような影響を及ぼすのか、そしてその質をどう左右するのかを、具体的な事例を交えて考察していく。
自己肯定とは、「自分を許せる力」
加藤は、自己肯定感を「あるがままの自分を受け入れる力」と定義している。それは、「完璧でなければ愛されない」という思い込みから解放されることであり、自分の弱さや欠点を否定せずに、そのまま受け入れる姿勢である。
この自己肯定感が低い人は、結婚相手に「無償の愛」を過度に求めるようになる。自分の欠点を自分で受け止められないために、代わりに相手にそれを引き受けさせようとするのである。結果として、「私のすべてを受け入れてくれないあなたが悪い」という感情が生まれる。
加藤はここで警鐘を鳴らす。
「自分を受け入れられない人は、愛されていると実感できない。どれだけ相手が尽くしても、不安は消えない」
事例:自己否定感から生まれた「試す愛」
Mさん(女性・30代)は、仕事では周囲から「優秀」と言われる存在だったが、プライベートではいつも恋人に「私のこと、本当に好き?」と問い続ける癖があった。
彼女の内面には、「私は価値がない」「こんな私を誰も本気では愛さない」という根深い思い込みがあった。そのため、恋人の愛情を“試す”ために、あえて冷たい態度を取ったり、別れ話を持ち出すことさえあった。
こうした不安に駆られた行動は、やがて恋人との信頼関係を損ない、関係は破綻した。
加藤は、「愛されたい欲求が強い人ほど、愛される価値がないと思っている」と述べている。これは逆説的だが、人は「自分を愛してもいい」と思えたときにはじめて、他者の愛を受け取る準備ができるということだ。
自己肯定感が高い人は、愛に「余白」がある
自己肯定感が高い人は、「相手が自分をどう思うか」ばかりを気にするのではなく、「自分がどう相手に関わるか」を重視する。そこには、相手を尊重する余裕がある。
たとえば、Yさん夫妻(40代)はお互いの違いを認め合いながらも、言いたいことは率直に伝え合う関係を築いている。Yさんは「夫がどうしても理解してくれないことがある。でも、それが夫の限界なのだと受け入れている」と言う。
これはまさに、自己肯定感の高い人が持つ“心の余白”の象徴だ。相手が自分の期待通りに動かなくても、それを即座に「拒絶」と受け取らない。それどころか、「自分もまた完全ではない」と認めることができる。
加藤はこう述べる。
「成熟した愛とは、相手を自分の理想に合わせようとすることではなく、相手の“不完全”と共に生きること」
自己肯定と結婚の質の相関関係
結婚の質とは、日常におけるコミュニケーションの質であり、衝突への対処の仕方であり、何より「二人の間にある安心感の総量」である。
自己肯定感が高い人たちの結婚生活は、安定しているだけではなく、対等である。言い換えれば、「相手に愛されることで自己価値を感じる」のではなく、「自分が自分を愛しているから、相手と共に生きられる」という構造がある。
逆に、自己肯定感が低い人の結婚では、常に「確認」と「証明」を相手に要求し続ける関係となる。その要求が重くなるほど、相手は愛する余力を失い、関係はぎくしゃくしていく。
結語:自分を肯定する者だけが、他者と共に歩める
結婚において本当に必要なのは、「愛されること」よりも、「愛されなくても崩れない自分」である。なぜなら、誰かと共に生きるということは、必ずしも常に理解され、常に受け入れられるわけではない現実と向き合うことでもあるからだ。
加藤諦三が何度も語ってきた通り、「結婚はあなたを癒さない」。だが、自分自身と和解できた者にとっては、結婚は人生をより深く知る“舞台”となり得る。
自己肯定、それは愛の土台である。
その土台なしに築かれた関係は、いずれ揺らぎ、崩れる。
だが、土台がしっかりしていれば、その上にはどんな“違い”も“困難”も、二人で越えていける家を築くことができるのだ。
第三章:なぜ人は“結婚に逃げる”のか
かつて一人の青年がこう呟いた。「結婚すれば、きっと人生は楽になる」。彼は社会的な不安、自尊心の低さ、孤独感といった多くの“生きづらさ”を抱えていた。そしてそれらすべてが、「結婚」というイベントによって帳消しになるような錯覚を持っていた。
だが、結婚は現実だった。彼の理想とは裏腹に、日々は煩雑で、すれ違いと葛藤の連続だった。やがて彼は悟る。「自分は、結婚から何かを“得よう”としていただけだった」と──。
加藤諦三教授が長年にわたって繰り返し問いかけてきたのは、このような「逃避としての結婚」がもたらす心理的問題である。人はなぜ、結婚という形の中に“自分の人生の解決”を託してしまうのだろうか? 本章では、逃避動機としての結婚に潜む危うさについて掘り下げていく。
結婚が「逃げ場所」になるとき
加藤は明言する。
「孤独に耐えられない人は、結婚を“居場所”として求める。だが、そうした結婚は必ず破綻する」
多くの人にとって、結婚は“次のステージ”として描かれている。しかしその動機が、「現実の人生からの逃避」である場合、結婚は成長を促す場ではなく、“自己回避の牢獄”となる。
たとえば、親との確執、職場のプレッシャー、自己実現の不全感などを“帳消し”にする手段として、結婚が選ばれることがある。だが、加藤はそれを“逃げの結婚”と呼び、それは「自分自身から逃げた結婚」であり、いずれ相手を責めるようになると述べている。
事例:Sさんの「責任転嫁としての結婚」
Sさん(女性・20代後半)は、学生時代から“いい子”として生きてきた。親の期待に応え、就職し、社会的に成功したように見えたが、実際には「自分の人生を生きている」実感が乏しかった。
そんな彼女は、27歳で安定した公務員の男性と結婚する。「この人となら、安定した幸せが得られる」と確信していた。しかし数年後、Sさんは毎日の生活に強い虚無感を抱くようになる。「何のために結婚したのか」「私は誰の人生を生きているのか」と。
加藤はこのような心情を「人生の責任を他者に委ねた代償」と解釈する。
「自分の人生に責任を持てない人間は、結婚相手に人生の意味を委ねる。しかし、やがてその人が“満たしてくれない存在”になると、恨みを抱き始める」
Sさんにとっての結婚は、「自己選択を避けるための装置」だった。しかしそれは同時に、「選ばなかった責任」を伴う。そのことに気づいたとき、彼女の心には怒りと罪悪感が同居するようになった。
結婚=幸せという社会的幻想
現代日本において、「結婚=幸福」という図式はいまだに強く根付いている。特に女性にとっては、「結婚すれば人生が安定する」という社会的圧力が存在する。
加藤はこのような社会構造を「幻想によって人間の不安を麻痺させる装置」と喝破する。
「結婚していないと不安になる人は、結婚しても不安なままである」
これは極めて本質的な警告だ。実際、結婚によって一時的に不安が薄れることはあるが、それは“問題が解決した”のではなく、“別の問題に置き換えられただけ”である。自己不全感、孤独、劣等感といった根本的課題は、結婚によって自動的に消えるわけではない。
結婚ではなく、自分と向き合うことから始める
では、結婚を“逃避”にしないためには、何が必要なのか。加藤は、こう述べている。
「結婚を選ぶ前に、まず『自分の人生の責任は自分にある』と認めよ」
これは極めて厳しい命題である。なぜなら、自分の不幸を外部のせいにすることは簡単だが、自分の内面の空虚と向き合うことは苦痛を伴うからだ。だが、それこそが本当の意味での「準備された結婚」なのである。
自分の孤独を恐れず、自分の弱さを受け入れたとき、人は初めて“誰かと共に生きる”ことができる。加藤は、それが「愛すること」の出発点だと説く。
結語:逃げ込むのではなく、共に生きる選択を
結婚は“逃げ場所”ではない。むしろ、自分自身と向き合った者だけが選べる「共生の場」である。結婚によって変わるのではなく、自分が変わるからこそ、結婚の意味が生まれる。
加藤諦三が提唱する「心の成熟を土台とした結婚」とは、自分という存在に責任を持ち、そのうえで「他者と関わる力」を育てる道でもある。
人生に迷ったとき、結婚は道標にはならない。
だが、自分という人生を歩む覚悟ができたとき、結婚はその人生に“深み”を与えてくれる。
逃げるためではなく、生きるために――結婚は、そう選ぶべきものなのだ。
第四章:パートナー選びの心理的動機
なぜ人は、ある特定の人物に惹かれるのか?
なぜ、冷静に考えれば「不釣り合い」とさえ感じる相手を、無意識に選んでしまうのか?
そしてなぜ、多くの人は「いつも同じようなタイプと付き合って、同じような苦しみを繰り返す」のか?
加藤諦三教授は、こうした“パートナー選び”の奥底にある心理的動機を、表面的な恋愛感情や理想像ではなく、「深層心理」「未解決の親子関係」「自己評価」といった土壌から読み解こうとする。恋は偶然ではない。むしろ「心の記憶」に導かれて始まるのだ、と彼は語る。
本章では、なぜ人は特定のパートナーに惹かれるのか、その背後にある無意識の動機と心理的パターンを、具体的な事例を交えて論じていく。
「好きになる相手」は、実は自分の心が選んでいる
加藤はこう語る。
「恋に落ちるとは、心の中にある未完の記憶に手を伸ばすことだ」
つまり、私たちは無意識のうちに、「過去に果たされなかった感情体験を回収できそうな相手」を選んで恋に落ちるのである。たとえば、父親に愛された実感のない女性が、年上で威厳のある男性に惹かれる。あるいは、母親にコントロールされて育った男性が、過干渉な女性に無意識に親近感を持つ。
このように、パートナー選びは「過去の感情再演」の舞台になりやすい。そして、相手を愛していると思っていても、その実態は「心の記憶に基づく執着」である場合が少なくない。
事例:母性を求めたTさんの結婚
Tさん(男性・30代)は、幼少期に母親から十分な愛情を受け取れなかったという体験を持っていた。母は教育熱心で厳格で、Tさんが泣いたり甘えたりすると「男の子がそんなことでどうするの」と突き放した。
大人になったTさんは、非常に面倒見の良い年上の女性と結婚した。彼女はいつも気配りができ、Tさんの生活全般を取り仕切ってくれた。彼は「ようやく自分を受け入れてくれる母親のような存在」を得たように感じた。
しかし数年後、Tさんは次第に息苦しさを感じ始めた。「自分が子ども扱いされている」「妻に支配されている」と。やがてTさんは家を出る決断をした。
加藤はこのようなケースを、「満たされなかった幼児的欲求の再演」だと分析する。結婚相手に“母親役”を担わせようとする限り、対等な関係は築けず、やがて「感謝」は「反発」に転じてしまう。
自己否定と“ふさわしい相手”の選択
もう一つ注目すべきなのが、自己評価の低さとパートナー選びの関係である。
加藤はこう述べる。
「自分には価値がないと思っている人は、無意識に『自分を大切にしない相手』を選んでしまう」
たとえば、自分を粗末に扱う恋人、暴力的・冷淡なパートナーとばかり関係を持ってしまう人がいる。周囲は「なぜそんな人と?」と首を傾げるが、本人にとっては“なぜか落ち着く相手”だったりする。
この“落ち着き”の正体は、実は「過去に体験した関係性の再現」なのである。苦しくても、それが“慣れ親しんだ感情”であるため、人はそこに引き寄せられてしまう。加藤はこれを「心の慣性」と呼ぶ。
本当に“健全な関係”を築くには
加藤は、健全なパートナー選びのためにはまず、「自分自身を深く知ること」が必要だと説く。
自分が過去にどんな傷を負ってきたのか
なぜその相手に惹かれたのか
その関係は、“愛”か“補償行為”か
相手といることで、自分は自由になれているか
こうした問いに向き合わない限り、人は何度でも同じパターンを繰り返す。そして「自分には恋愛運がない」「男運/女運が悪い」と他者や運命に責任転嫁するようになる。
加藤は強調する。
「恋愛とは、自己理解の投影である。だからこそ、愛を育てるには、自分を知ることが必要なのだ」
結語:無意識を見つめたとき、愛は始まる
パートナー選びは、偶然のようでいて必然である。人は、自分の心の傷跡にふれる誰かに惹かれる。だが、その傷を癒すのは相手ではない。
その傷と向き合い、自らが癒す覚悟を持ったときに初めて、「共に歩む」という健全な関係が生まれるのだ。
加藤諦三の心理学は、愛の始まりを「自己との対話」に見出している。
恋に落ちることではなく、恋に目覚めること。
他者に救いを求めるのではなく、自分の心の真実に気づくこと。
そこにこそ、本当の意味での「パートナー選びの自由」がある。
第五章:結婚生活の持続に必要な心の成熟
「なぜあの夫婦はうまくいっているのだろう?」
「なぜ私たちはこんなにぶつかるのだろう?」
結婚とは、始めるよりも“続けること”のほうが遥かに難しい。その違いは、愛情の量や経済力、趣味の一致ではない。加藤諦三は、こう言い切っている。
「結婚生活が続くかどうかは、心の成熟度にかかっている」
つまり、幸せな結婚生活とは“性格が合う”ことでも“情熱が冷めない”ことでもなく、「相手をどう扱えるか」「自分をどう律せるか」といった“人間の深層的な成熟”に根ざしているのだ。
本章では、結婚生活を長期的に持続可能なものとするための心理的条件として、「心の成熟」とは何かを掘り下げていく。
幻滅からが“本当の結婚”の始まり
恋愛と結婚の違いは何か。それは「相手の幻影」から「相手の現実」へと移行する過程にある。恋愛中は、互いに理想を投影し合っている。しかし、結婚生活が始まれば、生活のズレ、価値観の違い、些細な癖や欠点が次第に露呈してくる。
加藤は言う。
「結婚は、相手の“ありのまま”を受け入れる決意である」
これは簡単なようでいて、実際には非常に難しい。なぜなら、多くの人は「相手を変えようとする」ことから関係性を始めてしまうからだ。
もっと気遣ってほしい
もっと話を聞いてほしい
なぜ私の期待通りに動いてくれないの?
こうした欲求が積み重なると、やがて「不満」と「責め合い」に発展する。加藤は、ここで最も重要なポイントを提示する。
「相手を変える努力より、自分を理解する努力のほうが関係を変える」
事例:Iさん夫婦の“沈黙の時間”
Iさん夫婦は結婚15年目。子育ても一段落し、会話が減り、何となく“倦怠感”のようなものが漂っていた。ある日、Iさん(夫)は「このままで本当にいいのか」と感じ、妻に「最近どう?」と尋ねてみた。妻は涙ぐみながら、「何年もずっと、あなたが何を考えているかわからなかった」と答えた。
Iさんは気づいた。「会話が減った」のではなく、「心を閉じていた」のは自分だったのだと。以来、夫婦は互いの“沈黙”に耳を傾けるようになった。
加藤はこうした関係の再構築において、「成熟した態度」が何より重要だと語る。
相手に“正しさ”を証明するのではなく、“感情”を受け止めること
すぐに解決しようとせず、相手の痛みと“共に在る”こと
理屈よりも“安心”を与えること
これらは、未熟な心には難しい。だが、成熟とは“我慢”ではなく“受容”である。
結婚生活における「自由」と「境界」
成熟した関係とは、「距離感が絶妙である関係」でもある。加藤は、共依存的な関係性の危険性を強調している。
「相手の人生を自分の人生で埋めようとすると、関係は必ず窒息する」
健全な夫婦関係とは、依存でも放任でもなく、「心理的に自立した二人が、互いに責任を持ちながら関わること」だ。相手に期待しすぎず、しかし期待を放棄もしない。境界を保ちつつ、心はつながっている。
これは仕事や趣味、人間関係など、自分自身の人生を“きちんと生きているかどうか”にも直結する。結婚とは、自分を犠牲にして相手に尽くすことではなく、「自分が自分であることを許し、相手にもそうあってもらうこと」なのである。
心の成熟とは何か
加藤諦三が説く「成熟」とは、以下のような心理的態度に集約される。
自分の感情を言葉にできる
相手の否定を、自己否定と受け取らない
怒りの裏にある“悲しみ”を理解している
相手が変わらなくても、自分が変わる努力を惜しまない
問題があっても、「この人と共に生きていこう」と思える
これらはいずれも、「自分自身と向き合う力」を求められる要素である。未熟な心は、常に外に原因を求める。成熟した心は、「内側で何が起こっているのか」に目を向けることができる。
結語:成熟は、日々の“態度”から始まる
結婚生活は、長い旅路である。愛している日もあれば、嫌いになりそうな日もある。理解し合えるときもあれば、すれ違うときもある。それでも続けていくには、感情の波に流されない“心の舵”が必要だ。
加藤諦三の語る「成熟」とは、決して完璧な人間になることではない。むしろ、不完全であることを認め、怒りも弱さも抱えたまま、“それでも相手と生きようとする意思”を持ち続けることだ。
成熟は感情の安定ではない。態度の選択である。
その選択を重ねる日々こそが、結婚生活という“関係の作品”を創り続けていくのだ。
終章:結婚という“道”を歩むために
結婚とは何か。
それは“愛の証”でも、“人生のゴール”でもない。むしろ、加藤諦三が繰り返し説くように、結婚とは「自分自身を知る旅」の延長線上にある人生の一工程である。
私たちはしばしば、愛することと愛されることを混同し、癒されたいがために誰かと共に生きようとする。しかし加藤は、愛されることを期待しすぎるほど、人は他者を責めやすくなり、結婚という関係は崩れていくと警鐘を鳴らす。
結婚は「救済」ではなく「自己対話の場」である
第一章で見たように、結婚は癒しではない。「愛されることで心の空白が埋まる」と信じる人ほど、その期待に裏切られたとき深く傷つき、やがてパートナーを責める。
結婚は“癒し”ではなく、“契約”である。それも法律的な意味ではなく、心理的に成熟した二人が互いの自由を尊重し、共に歩むことを選び続ける精神的な契約だ。
自己肯定が「愛される力」を生む
第二章では、自己肯定感が結婚の質を左右することを確認した。自分を信じられない人は、愛されている実感を持てず、愛の証拠ばかりを求めてしまう。
加藤の言う「愛するとは、まず自分を受け入れること」——この姿勢がなければ、どんなに相手が尽くしても、愛は届かない。自分が壊れない自信を持って初めて、他者と対等に関係を築くことができるのだ。
結婚に逃げ込むと、さらに孤独になる
第三章では、結婚を「孤独や不安からの逃げ場」にしてしまう心理に焦点を当てた。
加藤は明言している。
「結婚していないと不安になる人は、結婚しても不安なままである」
結婚は「現実からの避難所」ではなく、「自分自身に直面する場所」だ。そこから逃げるようにして選ばれた関係は、やがて相手を責め、結婚そのものを破壊してしまう。
パートナー選びは「心の記憶」に導かれる
第四章では、人は無意識に“親との未解決の関係”を再演する相手を選びがちであるという視点を深掘りした。好きになる相手には、どこかで「懐かしさ」や「課題の回収願望」が潜んでいる。
だからこそ、パートナー選びとは自己理解の反映でもある。健全な関係を築くには、「なぜこの人に惹かれたのか?」という問いを自分に投げかけることが重要である。
成熟だけが“関係”を育て続ける
第五章で語ったのは、結婚生活の持続に必要な要素は愛情の多寡ではなく、心の成熟であるということだ。葛藤、沈黙、すれ違い…それらはすべて“試練”ではなく“成長の機会”である。
相手の未熟さを責めず、受け入れる力
自分の感情を表現し、コントロールできる力
解決よりも共感を重視できる姿勢
これらはすべて“愛する力”であり、結婚を日々選び直すための心の筋力である。
結婚とは「愛を学ぶ道」である
結婚とは、“幸せになる手段”ではなく、“人として成長していく場”である。
加藤諦三は、結婚を通じて私たちが直面するあらゆる痛みや葛藤を、自己発見と自己改革の機会として位置づける。
「愛とは、心の態度である」
この言葉にすべてが凝縮されている。
愛されるのを待つのではなく、愛することを選ぶ。
相手に期待するのではなく、自分に問い続ける。
関係を“維持する”のではなく、“育てる”責任を引き受ける。
そして、あなたは「結婚」をどう選ぶか
このエッセイを通じて私たちがたどってきたのは、「結婚」という言葉の奥にある人間の深い内面の世界である。孤独、不安、自己否定、理想、依存、支配、そして愛。
それらを全て抱えたまま、私たちは誰かと共に生きる。
だからこそ、結婚とは、「他者との契約」ではなく、「自分との契約」である。
自分を理解し、自分を癒し、自分を赦したその先に、誰かとの真の関係が始まる。
あなたが結婚を“逃げ道”としてではなく、“成長の道”として選ぶとき、
そこには、他者とともに生きることの、静かで確かな幸福が生まれていく。
ショパン・マリアージュは貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その基準に基づいたマッチングを行います。これにより、結婚生活の基盤となる相性の良い関係性を築くためのスタートを支援します。また、結婚に関するサポートや教育を通じて健全なパートナーシップを築くためのスキルや知識を提供します。
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