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クララ・シューマンの幸福と現実

2024.04.07

ショパン・マリアージュ

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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釧路市浦見8丁目2−16
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 1853年になってようやく、クララに喜ばしい年が訪れた。前年9月に1家はビルカー通りに転居したが、デュッセルドルフに於けるこの3番目の住居で、クララはついに自分の部屋を手に入れ、ローベルトへの気遣いから解放されて仕事が出来るようになったのである。「こんな風に規則的に勉強できるようになると、ようやくまた本領を発揮できるように感じる。これまでとはまったく違う気分。身も心も軽く、自由だ。すべてがこれまでよりも愉快で、素晴らしくみえる。音楽はなんといっても私の生活の大半を占めるもの。音楽がないと、身も心もひからびてしまう」。

音楽に対する喜びを取り戻したことは、作曲活動にも好影響を与えた。6年前に協奏曲を書こうとして失敗して以来、ようやく再びクララは作曲の筆をとり、5月末から7月末までにいくつかの作品を生み出した。「ローベルト・シューマンの主題による変奏曲」作品20はローベルトに献呈されたばかりではない。この変奏曲の憧れにみちたメランコリックな主題は、ローベルトの「色とりどりの小品」作品99−4から取られ、クララはあたかも幸せだった過去を現在に取り戻そうとしているかのようである。「メンデルスゾーンのスタイルで」書かれ、「演奏するのに骨が折れる」この作品に於いて、主題は6つの変奏を通じて変わることなく、一貫して鳴り響いている。その分、表現内容はいっそう印象的に迫ってくる。

 「3つのロマンス」作品21の第1番は、実際にはこの曲集のなかで最も遅く作られた曲で、唯一、ローベルトがエンデニヒに入院した後の1855年に作曲されている。中間部では動きが感じられるものの、全体としては声部が幾重にも重ねられて層をなし、不協和音の掛留音がなかなか解決されず、果てしない悲しみが湧き出てくるくるかのようだ。第3部にあらわれる、シンコペーションのリズムを繰り返しながら5小節に渡ってはい上がっていく音の動きは、まるで絶望した叫びのようだ。また曲の最後で反復される3連音符と、それに絡みつくような半音の響きも、光の見えない状況を表しているように聴こえる。16分音符と16分休符の組み合わせで曲全体が貫かれている2曲目の「ロマンス」は、やさしく点を打ちながらかすめ過ぎていき、あたかも実際には存在しない幻影であるかのごとく消えていく。3つ目の「ロマンス」は、怒涛のごとくに先を急ぐ16分音符と、弱拍にアクセントが置かれた低音部によって、エネルギー溢れる作品に仕立てあげられている。

1854年6月には「ヘルマン・ロレットのユクンデによる6つの歌曲」作品23が生まれた。クララはこの曲を、ローベルトの「ペリ」の初演にも出演した、ソプラノ歌手で友人のリヴィア・フレーゲに献呈した。連作詩「ユクンデ」からクララが選んだテキストには、愛と自然に対する感情が描かれている。そこに想像力溢れる美しい旋律と、歌を支えると同時に、テキストの内容をより繊細に描き出していくピアノ伴奏が付曲された。オリジナルの詩を遥かに凌駕する音楽作品が生み出されたのだ。さまざまな気分は的確に表現されていて、心に迫ってくる。第1曲目の晴れやかな問答、2曲目の活気に溢れつつも抑制のきいた朝の雰囲気、5曲目の軽やかで活発な春の響き、6曲目の自然に魅了された熱狂的な陶酔。リストはこの歌曲集の第3番をピアノ独奏用に編曲した。ちなみに作品12−11と作品13−5についても、リストは以前に同様の編曲を行っている。

1853年5月に開催された第31回ニーダーライン音楽祭に、ローベルトは22歳になるかならないかのヨーゼフ・ヨアヒムを招待した。ヨーゼフ・ヨアヒムはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。3年前とは異なりー「ヨーゼフ・ヨアヒムには情感も情熱も感じられない」ーこのときの演奏からクララは強い印象を受ける。「なんと天才的で、高潔で、単純明快で、心の奥底まで揺さぶられることでしょう」2ヶ月後、クララはヴァイオリンとピアノのための「3つのロマンス」作品22を作曲した。どちらかといえば内面的で優美な最初の2曲では、2つの楽器が魅力的にかけあいながら対話を交わしていて、この種の楽曲によくある旋律と伴奏という枠をはるかに越えている。3曲目ではピアノ・パートの3連音符で弧を描くような早い動きが、ヴァイオリンの息の長い旋律を前に推し進め、情熱的な性格を与えている。クララとヨアヒムは、ヨアヒムに捧げられたこのロマンスを何度か共演した。

クララとローベルトのシューマン夫妻が、20歳のヨハネス・ブラームスと初めて出会ったのは、1853年9月最後の日であった。この日、ハンブルクの貧しい家庭に生まれたブラームスは、ヨアヒムに紹介されて夫妻のもとを訪れた。ブラームスが二人の前で弾いた自作もさることながら、明るい声と「表情豊かな目」、ブロンドの長髪、それに「興味をそそる若々しい顔つき」の優しく少年のような無邪気な外見、不思議な力、そのうえブラームスの天性の人柄とエネルギーが、二人をおおいに活気づけ、魅了する。何よりもブラームスの音楽は二人と目指す方向を同じくし、芸術上の理想的な同志のように思われた。ブラームスは1ヶ月以上夫妻のもとにとどまる。そして、ブラームスが呼び覚ました音楽の新しい時代がやってくるという予感は、ローベルトをして「新しい道」という一文を書かせることになった。また、夫妻の間でオランダ旅行の計画が熟していくきっかけでもあった。

1853年11月24日から12月22日まで続いたオランダ旅行は、芸術共同体としてのこの夫婦のクライマックスとなる。12回の演奏会はいずれも大成功で、ローベルトの歌曲と、合わせて9曲のオーケストラ作品もしくは室内楽作品が演奏された。クララが準備したレパートリーは驚くほど広い。ローベルトのピアノ協奏曲、ピアノ5重奏曲、および「ピアノと管弦楽のための序奏とアレグロ」作品134、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ3曲「熱情」、「ヴァルトシュタイン」、「月光」、ショパンおよびメンデルスゾーンの作品数曲、ヘンゼルトとヘラーの華麗で技巧的な作品をいくつか、加えて自作の「ローベルト・シューマンの主題による変奏曲」作品20、さらにベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」変ホ長調、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲ト短調、ヴェーバーの「小協奏曲」、以上である。さらにプログラムに歌曲が入る時は、たいてい伴奏を引き受けた。

 1854年も、1月に挙行された夫婦揃ってのハノーファー演奏旅行で幕を開け、希望に満ちたスタートを切った。ハノーファーでは新しい友人ブラームスとヨアヒムに再会した。それだけに、もともとローベルトの病の重大さを認めまいとしてきたクララにとって、2月にローベルトが心身ともに深刻な状況に陥ったのは思いがけないことだった。クララは「16日間ベッドに横になることなく、1日中ローベルトのそばについていた」「興奮のあまり君に何かしてしまうかもしれない」という不安から、ローベルトと医者たちは、クララが家から離れていたほうがよいと判断する。ローベルトはほぼ15年前に1度、ヴィークの憎悪によって迫害を受けていると感じていた頃、みずからとクララに危害を及ぼしかねない似たような精神状態に追い詰められた事があった。「クララ、もし君が昨日、僕のところにいたら、僕は君と僕自身を死に追いやりかねなかったよ」。ローベルトが2月27日に自殺を試みて未遂に終わったとき、クララはすでに、懇意にしていた盲目のロザーリエ・レーザーのところに身を寄せていた。「当時私はただおぼろげに予感していただけだった」。クララはおそらく、ローベルトが1831年に症状が出て苦しんだ梅毒の後遺症にだいぶ以前から悩まされていたことについても、軽い疑いを抱いた程度だろう。

1854年3月4日、ローベルトはフランツ・リヒャルツ博士のエンデニヒ精神病院に入院した。これはローベルト自身の希望だった。クララはローベルトに会いにいくことを禁じられ、それはローベルトの死の直前まで守られた。ローベルトの入院からわずか数日後、絶望したクララはジュッセルドルフ管弦楽団の前コンサートマスターで、当時はボンの音楽監督だったヨーゼフ・フォン・ヴァジレフスキーのもとを訪れる。「敬愛する友人でいらっしゃるあなたは、夫について私に一言も書いてくださいません。なんとやきもきさせるのでしょう!…ローベルトがどんな風に暮らしているのか、なにをしているのか、まだ謎の声が聞こえるのか、こういったことすら私にはわからないままで、胸が張り裂けそうです。今はローベルトについてのどんな言葉でも、私の傷ついた心にとっては慰めなんです。何らかの結論を聞きたいと思っている訳ではありません。ただローベルトがどんな風に眠っているのか、昼間なにをしているのか、そして私のことを気にかけてくれているのかどうか、ただそんなことを知りたいだけなのです。当初、ローベルトはクララについて一言も触れない。9月になってようやくクララの手紙を欲しがった。最後となった8通目の手紙を書いたのは、1855年5月5日のことである。

クララは金銭援助の申し出をフェリックス・メンデルスゾーンの弟で、家業の銀行業を継いでいたパウル・メンデルスゾーン以外は全て断った。パウル・メンデルスゾーンからの借入金も程なくして返済する。「神様が私に才能を贈ってくださった」ので、ローベルトと子供たちを自ら養いたかった。まもなくレッスン再開。「神様は私がどんなに困難を感じているかご存知です。でも、こうすることが自分自身を何とか保っていくための唯一の手段であると確信しています」。

クララを慰め、支えたのは、アルベルト・ディートリヒ、ユリウス・オットー・グリム、ヨアヒムといった音楽家の友人たちであったが、もちろん最大の支援者はブラームスである。クララはブラームスを、「これまでどんな友人に対しても感じたことが無いほど愛していました。私たちはお互い心底よく理解していました」。ブラームスはローベルトが亡くなるまでデュッセルドルフに滞在し、クララの近くに控えていた。35歳のクララは、「息子」とその「母親代わり」と語り、信頼関係を示す「君」という呼びかけを互いに使っていたが、この時期の親子の役回りは、実際のところ逆である。ブラームスの「痛みを癒してくれる思いやり」、「溌剌とした精神」、「恵まれた天賦の才」とりわけ「みずみずしく、力強い生まれつきの活発さ」によって、クララはこれまで経験したことのないような生きることの喜びにーいつもというわけではないにせよー満たされた。「あらゆる苦悩を私とともに背負ってくれた上に、心を晴らしてくれるようなことだけをしてくれる」人物は、ブラームスを置いて他にはない。エンデニヒから届く知らせに一喜一憂して、希望と希望なき喪心状態を行き来するクララ、息苦しくなるほどの心配と過重な負担から神経過敏で苛立ちやすいクララ、発作的に泣き出したり嘆いたりするクララーこのような女性を相手に、苦悩を晴らすという課題に応えるのは、ブラームスにとって決して簡単なことではなかっただろう。

この時期のクララは、ブラームスなしには、考えをまとめ、行動を決することがほとんどできなかった。ブラームスは「私のことを案じて、自ら望んで私に付き添い、勇気が挫けそうになると励ましてくれた」。その上ブラームスはまた、もはやローベルトから受けることの叶わない芸術上のインスピレーションの新たな供給源でもあった。すなわちブラームスは、クララに新作と取り組む機会を与えてくれたのである。「ローベルトの音楽は・・・誰も越えることができないほど詩的で、常にたおやかで、美しく、感情に優しく訴えかけてくる。ヨハネスの場合、いつもそうとは限らない。時にはその逆で、峻厳に響くことがある。・・・その人物同様、最も甘美な神髄は、しばしば粗野な外見の陰に隠されている。

 1854年6月、クララは第8子となる息子のフェリックスを出産した。その後、夏の休暇を過ごすためにオースデンに向かう。そこで将来重要な音楽仲間となる、もうひとりの若い音楽家と知り合った。28歳のバリトン歌手ユリウス・シュトックハウゼンである。他の芸術家に対してもそうしたように、クララはシュトックハウゼンをヘンテルに熱心に紹介した。「シュトックハウゼンの声は美しく、その解釈は誠実で心がこもっており、聴く者の胸を打ちます」。

クララはこの頃、ヘルテルと頻繁に連絡を取っている。自作の変奏曲作品20をヘルテルに渡した際には、ブラームスの変奏曲作品9も一緒に提供している。ブラームスのこの変奏曲は、クララの変奏曲と同じローベルトの旋律を主題とし、クララに捧げられた。芸術的
にも人間的にも3者の密接な関係を象徴するこの2曲は、同じ年に出版された。クララは同時にまた、作品22と23の自作の出版もヘルテルに打診している。特に「ピアノとヴァイオリンのための3つのロマンス」については、1年後に再度話を持ち出したが、その際、「ピアノのための3つのロマンス」作品21を付け加えることも忘れなかった。結局、作品23の歌曲集以外の2つの曲集が、1855年に出版される。ブラームスの作品もクララは巧みに売り込んだ。ブラームスのピアノ三重奏曲作品8は、「おそらく、3人集まればすぐに初見で演奏できる、といった類の曲ではないでしょう。でも、すでに私たちが知っている最も機知に富み、オリジナリティ溢れる室内楽曲と並べても、決して引けをとらない作品です」。「4つのバラード」作品10の売り込みに際しては、出版の話を持ち出す前に、その中から2曲を選んでヘルテルに弾いて聴かせた。クララは誤解を避けるために、シュトックハウゼンを紹介した時と同様、ここでも「美しいものを世に広めるという以外のどんな利害関係も」なく、「純粋に芸術的な関心」のみであることを強調している。

1854年10月半ば、クララは結婚以来初めて冬の演奏旅行に出発し、12月23日まで計22回の公開演奏会を行っている。ライプツィヒでは、ブラームスに捧げられたローベルトの「ピアノと管弦楽のための序奏とアレグロ」作品134を、当地で初めて披露した。ヴァイマールではローベルトのピアノ協奏曲を、ハンブルクではピアノ5重奏曲と「交響的練習曲」、「幻想小曲集」作品12から「夕べに」と「夢のもつれ」、ベルリンではヨアヒムとともに「幻想小曲集」作品73とヴァイオリン・ソナタニ短調作品121を演奏している。またこれらの都市ではブラームスのピアノ・ソナタヘ短調作品5の第2楽章と第3楽章も紹介した。

1855年1月半ばに始まったオランダ・ツアーの途上、ロッテルダムに突然ブラームスが現れた。「最初、私は本当に仰天した。でもしばらくして、心からの喜びに浸った」。しかしローベルトに対する思いは、まさにこの頃ピークに達していたに違いない。エンデニヒの彼から希望のかけらも感じられない手紙が届いただけに、なおさらであった。絶望のあまり落ち込み、気分がすぐれず、力も湧かないーこのときは音楽さえもクララの助けとはならなかった。「胸の張り裂けるような思いを抱きながら聴衆の前に出ていくのは、困難の極みだ」。

それでもクララは、いささか危険の伴うポンメルン地方への演奏旅行に出発し、数日後にジュッセルドルフに戻ってきた。「私には休息が必要です。それで気持ちが落ち着くとは決して思っていませんが」。4月にはローベルトの作品を演奏するために、ハンブルクとハノーファーへ向かった。不安を和らげるには、絶えず活動するしかない。それでも、イギリス旅行は断念した。ローベルトが「一刻も早く私に会いたいと望むかもしれないし、医者が突然、私に来るように言うかもしれない」と考え、デュッセルドルフに留まりたかったのである。9月10日付けのりヒャルツ博士の手紙によって、初めてクララは「ローベルトが全快するかもしれないという希望」を捨てた。

こうした状況のなか、クララはラインタール地方にブラームスと小旅行を試みたり、8月にリヴィア・フレーゲとキール近郊にしばらく滞在したりして、ひとまず休養をとった。その後、1855年10月末、再び旅に出る。通算するとこれまでで最も長い、8ヶ月にわたる演奏旅行の最初の旅が始まったのだ。ベルリンでは音楽の夕べでヨアヒムと3回共演し、またベートーヴェンの変奏曲ハ短調を初めて公開の場で演奏した。さらに、「演奏会に伴う種々の些細な雑用」の処理にもみずからあたる。クララがこの最初の旅からようやくデュッセルドルフに戻ったのは、クリスマスの8日前のことである。それからほどない1856年1月、3回目となるヴィーン旅行の幕が切って落とされた。今回は、クララと娘たちのために、付添人の女性が一緒である。

いまやクララは、シューマンおよびベートーヴェン解釈の第一人者という強い自覚をもって演奏会に臨む。ローベルトの「交響的練習曲」と「謝肉祭」を演奏し、「熱狂をもって迎えられた」。ペストでは、「謝肉祭」で演奏会の最後を飾っている。また、すでにライプツィヒで行ったように、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「ハンマークラヴィーア」をプログラムの冒頭にもってきて、この、この上なく難解な曲をいきなり最初に聴くという試練を聴衆に突き付ける。送別演奏会では「謝肉祭」を再度プログラムに入れ、新たにブラームスのピアノ・ソナタハ長調作品1から第2楽章と第3楽章を弾くといってきかない。「裾の大きく広がったフープスカートを履き、装飾かつらを被って暑さのために溶けてしまいそうな貴婦人たちが溢れる」サロンの雰囲気ーこのような雰囲気もまた、リストが広めたサロン・コンサート文化の一部であるーを、クララは出来る限り避けるよう心掛けた。というのも、「私はそうゆう場所には馴染めない。私の心は苦悩と憧れに満たされ」、レパートリーもそうした傾向の曲ばかりだが、それらは「ここにはまったくそぐわない」からである。それでもクララは「聴衆に支えられ」、「5,6ヶ月は家族を養えるほど」の収益をあげることができた。

1856年3月16日にジュッセルドルフへ戻るに先立ち、クララは二人の娘、15歳のマリーと13歳のエリーゼを、ライプツィヒの「寄宿学校」へ連れて行った。そして、ブラームスが「命を落とすかもしれない危険なイギリス演奏旅行」を断念させようと試みたにも関わらず、1856年4月8日、クララはオーステンデからドーバーへ向かう汽船に乗り込み、船中でわびしい一夜を過ごした。3ヶ月にわたる演奏旅行は、エンデニヒからの芳しくない報告に気のふさぐことの多い日々だった。

この旅行から帰宅して8日後の7月14日、クララはボンへ向かった。ローベルトの命は、あと1年ともたないだろうというリヒャルツ博士の説明を聞くまでもなく、ローベルトの死期が近づいていることを感じ取ったクララは、いったんエンデニヒを後にした。しかし7月23日に電報を受け取ると、ふたたびボンへ駆けつける。ブラームスと医師は、クララがローベルトを見舞うことをふたたび引き留めた。ようやくローベルトに会えたのは27日のことで、翌日もう一度ローベルトのもとを訪れた。「胸の痛み、ローベルトを求める気持ち、ああ、一目でいいからもう一度ローベルトが私を見てくれるならば!ローベルトを間近に感じることが出来るならばー私は行かなければならない」。クララが心から愛している宝物、あの善き心を映し出しているローベルトの目だけは、変わっていなかった。「ローベルトはすぐに、これまでと変わらない優しいまなざしを私に向けてくれました!私を愛情のこもった目で見て、もう一度抱擁してくれましたーこの慰めに満ちた想い出を決して忘れません」。

1856年7月29日、ローベルトはこの世を去り、31日にボンに埋葬された。「神よ、私にローベルトなしで生きる力をお与え下さい。…ローベルトとともに私の幸福もすべて彼方へ去ってしまった!これからまったく新しい生活が始まる」。

新しい生活とは、自分自身と7人の子供ー彼らにとってローベルトは「素晴らしい父親」だったーの責任を一人で背負う生活だ。11歳のユーリエは、しばらく前からベルリンのクララの母のもとで暮らしている。4歳のオイゲーニエと2歳のフェリックスは家に残り、クララの手で育てられることになった。8歳のルートヴィヒと7歳のフェルディナントはデュッセルドルフの教育施設に預けられることが決まったが、その前にクララはこの二人の息子とブラームス、それにブラームスの姉エリーゼとともに、8月14日から9月23日までルツェルン近郊で過ごし、休息をとった。

このルツェルン滞在中と、さらにデュッセルドルフに戻った後もしばらくのあいだ、クララはあることについて、絶えずブラームスと話し合っていたと思われる。10月21日、ブラームス、旅立つ。駅でブラームスを見送った時、クララはあたかも自分が「埋葬式から戻ってきた」かのように感じた。これは確かに、愛と友情の終わりではない。しかし、2年にわたる親密な関係の終わりではあった。当時37歳のクララは、23歳の若者の心に、賛美の念とともに強い感情を引き起こした。しかし、多くの成功体験とともに、従属を強いられ、芸術家としての活動を制限された経験をもつ女性にとって、結婚という選択肢はもはやありえない。

ブラームスは生涯独身を通した。ブラームスの手紙からクララを熱烈に賛美する調子が次第に薄れていったとはいえ、数年後にもまだこう書いている。「この真剣な愛に、いくらかでも慰みを与えて下さいー私はあなたを、私自身よりも、世界中の誰よりも、何よりも愛しています」。

ブラームスと別れた翌日、クララは再び演奏旅行に旅立った。最初はドイツ国内を回り、その後ゲーゼの招きに応じて、11月9日から12月14日までコペンハーゲンに滞在する。同地では、ローベルトのピアノ協奏曲とピアノ5重奏曲を2回演奏しなければならなかったー「熱狂が沸き起こりました」。クリスマスにはブラームスが再びデュッセルドルフに訪ねてきた。この数日のあいだにクララは、ローベルトの思い出に浸りながら、「ロマンス」ロ短調を作曲する。悲しみと憧れに満ちた、囁くような曲で、モチーフの一部は、ブラームスのヘ短調ソナタの第2楽章の冒頭テーマを思い起こさせる。

この「ロマンス」は、作曲活動に限って言えば、クララの白鳥の歌である。クララを作曲に導くローベルトの関心も、作曲のきっかけを与えるローベルトの誕生日も、もはや存在しない。クララにはまた、静かな落ち着いた時間もない。いまや家族を養うために、旺盛な演奏活動を中断するわけにいかないからである。クララにはさらに、女性にも作曲の才能があるというゆるぎない確信が欠けていた。それでも時々感じていた熱い思いー「やはり自分で創造するという行為に勝るものはない」ーも、みずから水をかけて消してしまった。女性には作曲できないという社会通念を、クララは分かちもっていたのだ。「いくら否定したくとも、作曲する女性は自分が女性であることを争えない」。ちなみに19世紀を通じて、クララの出版作品は何度も版が重ねられ、またさまざまな曲集に収録されている。女性作曲家のヨゼフィーネ・ランクが出版社が見つけられないでいたところ、クララは彼女のために尽力した。しかしクララ自身は、自分はとりわけ「美しい作品を再現するという使命を授かっている」と感じていて、ピアノソロや室内楽の難解で斬新な作品の演奏者として、同時代の音楽文化に余人の追随を許さぬ影響を与えることとなる。

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